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塵壺421号 「戦争体験回顧録  湯浅雄逸氏 湯浅製作所会長」令和8年吉日発行




塵壺421号 「戦争体験回顧録  湯浅雄逸氏 湯浅製作所会長」令和8年吉日発行

 三春に疎開して80年になるという御歳97歳の大御所、湯浅製作所会長の湯浅雄逸さんにご自身の戦争体験や常備消防の話を伺いました。

 昭和3年(1928年)生まれの湯浅さんは、東京は大塚のご出身で護国寺境内にある「青柳小学校」(現文京区大塚)、そして神田小川町にあった「聖橋高等工学校」を卒業。

実家は、金属部品加工製作の湯浅製作所を営んでおり、旧日本海軍指定工場で、従業員は15人。

海軍の依頼を受けて指定軍需工場として魚雷や飛行機、そして自動車の部品などを製造していました。


 昭和19年末から、米軍B-29による軍需工場や軍事基地などへの本土夜間爆撃が始まり、沖縄陥落後には、F6FグラマンやP-51ムスタングなど航続距離の短い戦闘機の護衛を伴った昼間爆撃も可能になり東京・下町などの市街地へ大規模な無差別焼夷弾爆撃が開始されます。当時、湯浅さんは15歳で、首都東京の戦争・空襲も体験されています。


 一度、空襲があると小さな日本家屋など3分間で燃えてしまう状況であっと言う間に大火となってしまったそうです。

周知のようにB-29の大編隊による無差別爆撃です。たちまち東京は火の海と化します。






各々発生した火災鎮圧のために町内会ごとに組織された防火消防隊によって「手押し消火ポンプ」を出動させ、大きな井戸から水をくみ上げ手押しポンプへ注水して消火にあたりますが、若者は兵役に就いていた為に首都の防火任務は残された老人と婦女子、そして少年だけの消防隊です。

しかも大火の連続で、湯浅少年も消防ホース管槍(筒先)をもって、猛火に囲まれながらも1昼夜消火活動に従事し、その熱波で顔中に火傷を負ったそうです。

幸運なことに、爆撃で道路を挟んで向かい側は焼け野原になったそうですが、道一本隔てた自宅は消失を免れたとのことです。

後で調べてみたら自宅には焼夷弾が命中していましたが不発弾でした。

 また、上空のB-29は大きくて日本の迎撃戦闘機が豆粒のように見えたとの事ですが、海軍の零戦、雷電、月光、陸軍の飛燕、鐘馗、疾風などの迎撃戦闘機部隊や高高度高射砲部隊の活躍によりB-29が撃墜されるのも見ていたそうです。


時折、日も丸を付けた日本の戦闘機が、低空で自宅付近の上空を旋回している姿を目撃していました。

そのたびに湯浅少年は屋根に上り手を振っていたそうですが、後で考えると特攻隊として出撃する飛行兵が、家族の住む郷土へ別れを告げるために自身の自宅上空への表敬飛行だったということです。









 この体験が後の三春町消防団機関部の指揮官として平常心を保つのに生かされたそうです。

 昭和20年には、本土爆撃激化に伴って軍からの指示により軍需工場疎開と成り、湯浅製作所も金属加工の機械類を福島県双葉町へ移設しますが、当時の相双地区には陸海軍の飛行場があり、米英による爆撃や敵艦隊の艦砲射撃の危険があるということで、更に三春へ移設移転し、湯浅さんは家族や従業員などと共に三春へ疎開移住し大町の三春町交流館「まほら」付近の空き家に製作所を再開します。


 この頃になると地方都市へ疎開した軍需工場や陸海軍の飛行場などへの爆撃が始まり、B-29に加え戦闘機による軍事関連施設及び、鉄道機関車や自動車、牛馬はもちろん人間までも動くもの全てに機銃掃射やロケット爆撃が実施されるようになっていました。

昭和20年4月から8月まで計4回実施された郡山空襲では、保土谷化学郡山工場、日東紡富久山工場などを中心に攻撃を受けて近隣の国鉄郡山駅周辺まで被害に遭っています。三春でも各地で被害がありました。


 湯浅さんは、仕事の関係で出向いた保土ヶ谷科で工場の屋根が穴だらけという場面にも遭遇されています。

終戦となりましたが、そのまま三春町に於いて戦後復興に不可欠な各種産業の機械化のため資機材や各種部品の製作加工の製作所を営み、戦後日本の高度成長に寄与されていました。 



 防災に於いても、湯浅さんは、空襲体験を生かし三春町消防団本部機関部の部長(三春町消防団本部分団長)を16年務めた当時のことを伺っています。

三春町の合併後からの設立で、その当時は火災や水害などの災害対応や各種会議や会合、そしてポンプ整備や練習など3日を置かず三春町役場や機関部屯所へ出向いていたそうで、郡山広域消防組合が昭和48年4月1日に発足するまで、三春町消防本部機関部(常備消防)の指揮官として三春町の防災の為に尽くされました。


 当時は、人数や資機材不足のために、三春消防署(現郡山広域消防組合田村消防署三春分署)と共に火災出動はもちろんですが、急病やけが人などの救急車の任務も遂行していたと笑って話されていました。

 機関部解散後の消防団春季検閲式には、招集ありませんが、湯浅元部長の指揮の下で自発的に機関部員が参集して列外に整列して町長及び消防団長に辞意と心意気を表したと語っておられました。尚、旧三春城下の火災の際に、その火災防御態勢構築の生命線となっていた桜川敷設の防火用堰は湯浅製作所製でした。


 戦後80余年、湯浅さんに改めて平和の尊さをご教示してもらいました。


      蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝








 第49回福島民報社出版文化賞において「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」が「正賞」の栄誉をいただきました。これも一重に、皆様方の長年にわたるご指導とご支援の賜物と深く感謝いたしております。
 

今年、手前どもが営む三春昭進堂が100年目を迎えた時に「正賞」をいただきましたことは何よりの記念となりました。

さらに、過去の受賞者には、第4回受賞に大叔父髙橋哲夫の名前もあり、大叔父が当時63歳で私と同年というのも必然的な因縁めいたものを感じ、「温故知新」未来を創造するお手本は、過去にしかないと改めて、ご先祖様、そして天からのご褒美と感謝しているところです。






明治末創業の絹製品商社「磐城商会」から、昭和という改元あわせて店名を「昭進堂」と改名しました。

「真照寺(堂)の門前で、商いを通じて三春を昭(あか)るく照らしながら前に進んでいこう」という意と伝わっていますが、この受賞によって三春へ明るい話題が提供できたかなと思っているところです。

今後もこの栄誉に応えるよう尚一層精進してまいる所存ですので、変わらぬご厚誼を賜りますようお願い申し上げます。




 





 「磐城商会」三春昭進堂 髙橋龍一







| ryuichi | 03:30 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |