2026-08-15 Sat
三春盆踊り考 DANCING WITH THE MOONLIGHT!
江戸時代までは旧暦7月15日がお盆の中心でした。この日は必ず満月で、街灯のない時代、祖先の魂が迷わずに家に戻れるように、真夏の明るい夜をお盆の中心に決めたようです。
もともと伝統ある盆踊りの多くは、戦国時代に戦死者の霊を祭るために始まったところが多いようです。
しかし、社会が安定するにつれ、一向宗門徒や時衆による念仏踊りや風流踊りの影響を受けて、共同体の楽しいイベントのひとつになっていきます。そして、盆踊りが今のような庶民の楽しみになったのは、江戸時代。
魂に響く太鼓の音や、魂を引き込む番楽の動きと同様に、流れるように様々に変化する踊りは、観客の魂と一体となって、清らかな祈りを捧げているように見えました。
江戸期の、三春盆踊りには、江戸時代の飢饉の際、越後や北陸から田村地方に流れてきた避難農民によりもたらされたと考えるのが妥当だと思います。
八幡町末、城下境の三春城下黒門外に「踊り場」という地名が残ります。
江戸期にあった大桂寺の門前にあたります。
ここは、城下と農村の境目の所謂「隈(くま)」地域に当たり、江戸期享保や天明に発生した飢饉により、領内からの避難民受け入れ施設を設けて”施粥(ほどこしかゆ)”を施していた場所とは隣接します。
その際に、飢えや病で亡くなった多数の死者を供養した場所の近くでそ、の霊を慰めるための踊りが盛んになったことは容易に想像がつきます。
もう一か所、城下では新町の「競り市場」での盆踊りが有名でしたが、明治から大正昭和の初めにかけて庚申坂新地遊郭(江戸は新町末化粧坂)があったことに由来します。
元々新町は、寺社仏閣も多く神仏に仕える方々や大店の商人、そして半農の足軽が混在して居住していた町内というところでもあり、城下の中でも身分制度が希薄で、自由な感覚のあった風土に根ざしているのかもしれません。
盆踊りの時節になると、遊女たちは郭主から浴衣を新調してもらい、この時だけは、郭の外に出て自らが楽しめた行楽の一つで、最大の営業の場でもあったかと思います。
踊り手もその御女郎につられて多数集まってきたと伝わっています。明治期以後、特に大正から昭和にかけての盆踊りは、男女の出会い的要素が多分に多く含まれていました。
時代的に、老若男女よも不合法な男女の出会いを求めて、太鼓や踊りをするためにも編み笠をかぶって顔を隠すこともあったように思われます。
顔を隠すことでその人の個性や日常性から離れ「依代としての人」として、日本固有の精霊信仰と、仏教の孟蘭盆会が習合してできた行事で、踊り手の多くは、浴衣を着て踊っていたようです。浴衣とは、本来「ハレ着(晴着)」とされています。
ハレ着のハレ(非日常)、そして「湯帷子(ゆかたびら)」に由来し、神様にご奉仕の際や、物忌みをする者が、沐浴の後で着る物という意味があったそうです。
三春の盆踊りでも、古の写真を見るとみんな手拭いで“ほっかぶり“をして踊っているのが確認できますが、この手拭は“身を改める”という意味合いあったようです。
また、ほっかぶりをする手拭の効果は、各所で見られるように深い編笠などと同じように、盆踊りの「仮装性」を表すものだとも考えられており、顔を隠して誰かわからなくすることにより盆にこの世に戻った祖霊・精霊が現世の人と一緒に踊っているということを示しています。
もちろん、顔を隠すことで、誰かれ気がねなく思いっきり踊れるという解放効果もあったことでしょう。
現在の三春盆踊りは、参加も服装もまったく自由ですから、普段着のままで気にせず踊って結構ですが、手拭一本あっただけでいつもの自分とは違う自分になって盆踊りモードに突入するも一興です。
三春盆踊りのメイン会場となる大町お祭り広場では、月明りと提灯、そして世界的な照明デザイナー石井幹子(いしい もとこ)氏のデザインされた街路灯が配され趣ある雰囲気を醸し出していますが、伊藤寛(故人)元町長から「浴衣を着た女性(口紅)をよりいっそう美しくみせる仕掛けがあるんですよ」と伺った事がありました。
昨今の若い女性は、メイクや髪形もばっちり決めて、浴衣を着てお洒落をしている素敵な方が多く見かけられますが、上記の通りで手ぬぐいをかぶって顔を覆う女性はだんだん少なくなっている訳ですね。
蒼龍謹白 拝 さすけねぇぞい三春!
| ryuichi | 03:50 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::地域貢献 学校支援 |
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