2008-08-02 Sat
「純一無雑」三春藩士洛内紀行先日、所用があり京都に行きました、ついでに川端康成の「古都」という小説を慕って北山杉の多い京都の清瀧川の渓谷を尋ね、鄙の京と呼ばれる、京北町を訪れました。
その町外れに、北朝初代光厳天皇創設の常照皇寺という禅の古刹があります。
閑静な爪先上りの石段を上ると、左右に句碑があり、手で碑面をなでながら読み味わいながら本堂にたどり着きました。
境内(一宇)には、数百年という九重桜の古木がありました。生きる強さを教えられたような気がしました、そして清浄処という善さを肌で感じました。
掃除が行き届いていることは尊いものです。
他人の心まで癒してくれます、そこには法があり水もあり風もあります、さすが禅寺です。
堂内には「曹源」と名づけられた小冊子が置かれてあり、記念にと一冊求めました。
その終末のページに「純一無雑」とありました、「一度決意したら、その道でひたすら努力せよ。他に心を迷わすな。わき目もふらずに頑張れ。いつかはきっとその道を大成し、喜びの日が来る」という人生の応援歌がありました、私自身いつも心に留めておきたい言葉の一つです。
幕末の大政奉還後、徳川幕府は諸藩藩主を京都に呼びました。三春藩は藩主秋田万之助が幼年のため、政務は後見役の筆頭家老秋田主税が司っていましが、その名代として御年寄秋田広記が択ばれました。その先触れ、露払いとして三春藩江戸家老小野寺市太夫以下10名の三春藩士が藩主名代秋田広記の命を受け、徳川慶喜による大政奉還直後に状況把握の為に京都に上りました、小野寺一行が幕末風雲の京都についたのは、「鳥羽伏見の戦い」の一月前の慶応三年十一月末のことです。
時に京都は、薩摩藩や長州藩の藩兵や勤皇浪士が多数入り込み、一触即発の常態で、この戦塵漂う京都へ入京した時の、小野寺以下10名の三春藩士の心境はまさに心休まらずさぞ心細いものだったのではないでしょうが、「純一無雑」を胸に三春秋田家の代表として、その任務を果たし、後の三春藩行方を助けました。
いよいよ春、空も澄み、風も暖かく、移り変わる自然に心寄せて、北国の生命の息吹きが一番感じられる季節です。
新社会人、新入学生諸君、志を高く「純一無雑」を心に、夢に向って一日一日を大事に生きて下さい。
蒼龍謹白 合掌
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