2008-08-22 Fri
「看脚下」夏休みに家族そろって島根へ帰省しました。島根では自称ですが観音寺方丈花吉道久老師の最末弟として、毎朝四時からの後夜の座禅そして朝課に参加させていただきました。
ここ数年、我侭を云って座らせていただいていますが、在家の素人にも拘らず方丈様や嶷堂居士様の厳しさの中にも親切丁寧に座禅の作法や朝課のお経をご指導ご鞭撻していただき、この場を借りて御礼を申し上げると共に、来年もお願いを申し上げます。
観音寺での朝課は、私の生活の中で、つい忘れがちな、「看脚下」自分を見つめなおす、年一回の機会となっています。
「看脚下」とは「脚下を看よ」と読み、観音寺の玄関にこう書かれた札がかかっています。これは、履物をきちんとそろえなさいという意味もありますが、本来自己をよく見つめなさいという意味です。
この言葉は次の話に由来しています。九百年も前、中国に五祖法演というお坊さんがいました。ある晩、三人の弟子とともにお寺に帰る途中、どうしたことか灯火が消えてしまいました。あたりは真っ暗です。すると法演はすぐに三人に対して、「夜道を歩くのに頼りとする灯火が消えてしまった。さあ、どうしたらいいのか。この場に臨んで各自の心境を言いなさい」と命じました。法演の命に応じて、三人はそれぞれ答えをだしましたが、なかでも仏果が答えた「看脚下」という言葉が法演の心に適ったのです。
暗闇はわたしたちの人生と同じです。頼りとするものが失われてしまった。さあ、「どう生きるのか?」ということです。「看脚下」とは、そこで足下に注意しなさい。そして、その場にひたすらなじんで、一番大切なことをしなさい。そこからまっすぐに自己を見つめよということが大切と教えるのです。
禅では修行の第一歩として、自己を見つめよと教えます。それは、人間はだれでも仏性をもっている。これを見つめて、信じて修行しなさい、ということです。
わたしたちは、日々生きているといろいろな感情があるのに気づきます。喜んだり、怒、悲しんだり、楽しんだりなど。しかし、これらの感情によってどれだけ失望したり、調子に乗りすぎたりして、苦い思いをした経験は誰しも一度や二度あるでしょう。
そんな時、どれがいったい自分というものかと考えたことはあるはずです。すべてが自分と思う人もいるでしょうし、違うと思う人もいるでしょう。ただ、これらは一時の感情でしかありません。
それらの感情が生じた時、「喜んでいるな、怒っているな、悲しんでいるな、楽しんでいるな」とその時の自分を認める「もう一人の自分」があると禅は語ります。つまり仏性がちゃんと自分の中にあることを教えるのです。それを知り、学ぼうとするのが禅の修行であり、端的に表した言葉が、「看脚下」という言葉です。
普段の生活の中でも、出来そうなのですが、忙しさの中でその字の如く心を亡くし疎かになっているのが実情です。
コメント
コメントする
TOP PAGE △