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三春物語685番「三春城下の修験道と裏町修験来光院発掘調査」


三春郷土人形館裏側の裏通り、桜川を挟んだ不動堂跡前の時計台の裏に小さな碑文の石碑があります。これは幕末の三春藩儒学者川前紫渓(神職名川前丹後)という人が催した宴会に因んで建てられました。



江戸末期の文化十四年、三春城下の生まれで、修験来光院(明治維新後は多賀明神に改名)という現裏町三春武道館辺りにあった、修験堂の修験者(のち神官)から儒者になった人です。
  来光院に私塾を開いて、詞文より実学を基本とした水戸学派の流れを汲む学問を教え、多くの子弟を教育した事は有名ですが、中でも自由民権運動家、後の貴族院議長河野広中の師として「広中」の名を授けた人物として明治期に脚光を浴びました。
 


幕末から明治初期にかけての三春は、三春藩内から、藩士・町民問わず、教養が高く、自由民権運動家を多く輩出した基盤の中に、三春藩校明徳や佐久間庸軒の庸軒塾、この来光院が大きな役割を担っていました。
後に明治政府貴族院議長になった、自由民権運動家・河野広中の学問的素養の基礎は紫渓より学んだとされ、私塾化した来光院には、数多くの旧三春藩内外の自由民権運動家がその門を叩いています。

今回、桜川改修を受けて来光院跡が発掘調査が行われました。
この場所は、江戸期までは上記の修験来光院でしたが、明治期の廃仏毀釈での修験道廃止から、民間に売却され薬商回春堂主橋元柳平の別邸及び庭園として整備されていました。



修行体系と伝承は、明治時代初頭まで脈々と受け継がれていましたが、明治政府の方策(神仏分離・廃仏毀釈・修験道廃止令など)により修験道とともに廃止に追い込まれていきました。

ふだんは、町民と同じく生活をしながらも行者的な傾向を持っており、神社の別当や権現社の社僧職を世襲し、月待・日待・星待・御釜祭・夏越し・厄神除け・火伏・蟲送り・地鎮祭・家固め・もののけ祭・憑物払い・占いなど諸祈祷のほかに、護符配りなどを生業としていました。

修験道は森林と深いつながりがあります。
修験道はいわゆる山伏の宗教のことで、神仏習合を基盤に、神道や仏教、道教などが混淆して発展・成立した日本固有の山岳宗教であり、開祖の役行者以来1300年の歴史を持つ日本古来の宗教です。
また日本の森林はほとんどが山にあり、山川草木そのものである森林は修験道と切っても切れない関係がありました。



江戸時代なると、徳川幕府によって「修験道法度」が出され、山伏が諸国を回るのが禁止されます。
そのため都市や農村に定住した山伏たちによって、「講(こう)」という組織が結成されてゆきました。

 こうして、山伏を案内役に、全国各地から大峯山などの霊山へ登るブームが起きたのである。
修験道は庶民の間に定着し、行者信仰は全盛期を迎えます。
日本各地にある役行者関連施設の多くがこの時作られていると考えられています。

その修験道は、明治初年の神仏分離政策によって一時は解体される時代があり、山伏は、神官及び僧侶となるか還俗(げんぞく)せよとの通達でした。
そのため、今日もその法脈を伝えているとはいえ、庶民生活に根付いていた往時のような勢力はなく、一般の方々には縁の遠いものとなってしまいました。
 しかしその一方で、表面では政府に従いながらも、山伏による行者信仰はひそかに続けられていました。
また庶民の生活に根付いた行者信仰も簡単には消滅してはいませんでした。

先年、修験道を育んできた吉野・熊野地方が、日本で12例目のユネスコ世界遺産に登録され、修験道が注目を浴びるひとつのきっかけとなりました。



三春城下の修験には
1、華正院(荒町)
2、普明院(荒町)
3、大聖院(荒町)
4、若王寺(大町王子権現)
5、般若寺(北町天満宮別当)
6、陽正寺(北町切通し)
7、吉祥院(切通し)
8、宝来寺(亀井三春藩主秋田公祈願所)
9、泰平寺(山中大元帥明王別当)
10、文殊院(新町)
11、光照寺(新町)
12、常楽院(新町)
13、専修院(荒町)
14、来光院(裏町)
15、清水寺(御免町)
16、宝憧寺(御免町)
17、智法院(裏町)
18、大桂寺(丈六)
19、明王院(丈六)
20、万徳院(丈六)
21、西福寺(中町)
他に、所在不明
 和合院(荒町)
 成就院(新町)
 一条院(八幡町)
がありましたが、華正院だけが、天台宗寺門寺院として現存しています。


町内には数多くの寺院や神社があり、それぞれが歴史的な遺産を守り伝えています。
静けさと歴史の重みをたたえたこれらの寺社は、人々の信仰を集める祭祀の場であるとともに、歴史的な建物,地域に根ざした文化活動自体が独自の価値を持つだけでなく,郷土への誇りや愛着を深め,古来より住民共通のよりどころ、そして地域のコミュニティの場として機能してきました。



地域文化とは,人間の自然とのかかわりや風土の中で生まれ,育ち,身に付けていく立ち居振る舞いや,衣食住をはじめとする暮らし,生活様式,価値観など,およそ人間と人間の生活にかかわる総体を意味するのではないかと考えます。
一方,文化を「人間が理想を実現していくための精神活動及びその成果」という視点でとらえると,文化の中核を成す芸術,メディア芸術,伝統芸能,芸能,生活文化,国民娯楽,出版物,文化財などを示す文化芸術の意義については,人間が人間らしく生きるための糧となるものであり,人間相互の連帯感を生み出し,共に生きる社会の基盤を形成するものであるといえます。
 地方地域のこのような文化芸術は,すべての国民が真にゆとりと潤いの実感できる心豊かな生活を実現していく上で不可欠なものであり,国民全体の社会的財産だとおもいます。

これらは、歴史を背景に、生活との関わりの中で生み出され、現在まで守り伝えられてきた町民の財産です。
寺社仏閣の修復、周辺の歴史的街並みや、地域の特色ある文化を活かした継承・活用を考えることも大切です。
また、子どもや青少年が、我が国の伝統と文化に対する関心や理解を深め、尊重する姿勢を育むことは、豊かな人間性や国際社会に生きる日本人としての意識を醸成する上で、重要なことです。



子供の頃に良く聞いた話ですが、かつての三春では、修験の祈祷師の人が蟲切りや蟲封じをしていました。
蟲切り 蟲封じなど、いわゆる「疳の蟲」というもので、
そのまじないは手のひらに筆や指で真言や呪いを唱えながら蟲の字を書き最後に塩水や茶殻で手を洗い数分明かりに照らしてみると細かい糸状のものが出てきます。
これがいわゆる蟲です。
日常的に、よく泣いたり、奇声を上げたり、人に噛みつく、爪をかむ、指をしゃぶる、落ちつきが無いなどの、子供の行動や、病弱なども疳の蟲の症状としているそうで・・・・

不思議ですよね。


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| ryuichi | 09:03 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下大町::三春城由来 |