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三春物語691番「三春城下の盆踊り」
三春城下の盆踊り

祈りの形から民俗芸能が生まれました。


現在の盆踊りは、仏教の先祖供養の意味合いが濃くなつていますが、もとは神や精霊を迎える祭りの一つです。

闇につつまれた静寂と祖先供養の敬虔な気持ちが満ちる踊る姿は、美しい「祈り」の姿であって、近頃よく表現されているような「妖艶」なものではない。

魂に響く太鼓の音や魂を引き込む番楽の動きと同様に、流れるように様々に変化する踊りは、観客の魂と一体となって、清らかな祈りを捧げているように見えました。

三春盆踊りは、江戸時代に三春藩主が参勤交代で江戸に行った際、ともに江戸に上った家来たちが江戸屋敷で江戸の盆踊りを学んで、三春に伝えたときんねん言い始めていますが、敢えて言うならばそれは考えずらいと思います。

それは、武士が盆踊りを踊ることは幕府によって禁止されていたからです。

まして、三春藩士が江戸城下郭内にある、藩の江戸屋敷で踊ったなどということは考えられません。


 江戸期の、三春盆踊りには、江戸時代の飢饉の際、越後や北陸から田村地方に流れてきた避難農民によりもたらされたと考えるのが妥当だと面ます。



 

 八幡町末、城下境の日蓮宗法華寺の外側、三春城下黒門外に「踊り場」という地名が残ります。

江戸期にあった大桂寺の門前にあたります。


ここは、城下と農村の境目、所謂「隈」地帯で、非人居住区に当たります。

江戸中期から末期に頻繁に発生した飢饉により領内からの避難民受け入れ施設を設けて施粥を施していた場所でちかくです。

この場所で「盆踊り」が盛大に開催されていたというところに、多数の死者を出しましたが、その霊を慰めるために踊りが盛んになったことは容易に想像がつきます。


また、城下では新町の競り市場での盆踊りが有名でした。


こはは、明治から大正昭和の初めにかけて庚申坂新地遊郭があったことに由来します。

また、新町は、半農の商人や足軽が居住していた町というところも関係しているのかもしれません。

さらに、楽内や込木と境を接しているため、城下の中でも身分制度が希薄的な感覚があった地域です。


遊女がこの時だけは、郭の外に出て自らが楽しめた行楽で、踊り手もその御女郎につられて多数集まってきたと伝わっています。

江戸期以後、特に大正から昭和にかけての盆踊りは、男女の出会い的要素が多分に多く含まれていました。


時代的に、まだ、貞操観念の希薄や非人差別が尾を引いていた時代に、老若男女よも不合法な男女の出会いを求めて、太鼓や踊りをするためにも編み笠をかぶって顔を隠すこともあったように思われます。




昭和40年代に、それまで各字町内会で独自に叩き、踊っていた三春伝統盆踊りを「観光三春正調盆踊り」として統一して、町内会盆踊り廃止論に端を発した近年盆踊り



笠を深く被って顔を隠すようにして踊る地域があります。

顔を隠すことでその人の個性や日常性を消し去り、「依代としての人」になるものでしよう。

正に夏から秋に向かう頃に行われる盆行事は、こうした日本固有の精霊信仰と、仏教の孟蘭盆会が習合してできた行事です。




大正期の踊り場での「盆踊り}

| ryuichi | 09:48 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下歳時・風土記::三春盆踊り・だるま市 |