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三春物語736番三春城下八幡町末「ジウ屋敷」
三春城下八幡町末「ジウ屋敷」
八幡町末、城下境の日蓮宗法華寺の外側、三春城下黒門外に「踊り場」という地名が残ります。
江戸期にあった大桂寺の門前にあたります。

ここは、城下と農村の境目、所謂「隈」地帯で、非人居住区に当たります。
そこの地続きの城下黒門(郭門)の外居住区に10軒ほどの穢多と呼ばれて差別を受けていた人たちが、かつて住んでいたといいます。
そこから数百㍍離れたところには、ジウ屋敷というものがあったといいます。
江戸期の秋田藩政時代に、八幡町の小肝煎がその地域を支配していたからでしょうか、近代以降、行政的に八幡町に組み込まれていました。
穢多とは、士農工商の下に位置した人々で、非人と同等の扱いを受けていました。

もともとは 死のけがれにかかわる仕事に従事するものとして このえた・非人は そういう身分としてつくられた。
人にしろ牛馬にしろ屍の処理は 血のけがれとともに 忌み嫌われていたようなのです。



三春盆踊りの原型として考えているのは相馬盆踊りです。
江戸時代、人口減少に悩む相馬藩は移民政策を断行。
新潟・北陸方面から多くの浄土真宗門徒の移住者を招きます。
後の相馬盆踊りは、この「浄土真宗相馬移民」の手でもたらされたと考えられています。
その過程において、相馬藩領と境を接する三春藩領へ飢饉のたびに流入及び避難してきた方々によってもたらされ、やはり浄土系の時宗踊念仏と融合して現在の三春盆踊りの原型が形成されていったと考えられます。
飢饉のときの避難所として三春藩が用意していたのは三春城下八幡町末黒門外の旧裁判所付近とされています。


八幡町末城外の踊り場とは、文字通り念仏踊りをする場所、後の盆踊りをした場所を指しています。
江戸中期から末期に頻繁に発生し多数の死者を出しました飢饉により領内からの避難民の受け入れ施設を設けて施粥を施していた場所(旧裁判所跡地)が近くにあります。
この場所で「盆踊り」が盛大に開催されていたというところに、
その霊を慰めるために踊りが盛んになったことは容易に想像がつきます。

盆踊りでは人々が「編み笠」を被って踊りをしています。
これは、「あみがさ」というのは「阿弥(あみ)笠」ですから、阿弥陀経=浄土宗系門徒という図式になります。

明治末から大正期の”盆踊り最盛期”、賑やかだったのは新町と八幡町の盆踊りといわれ、新町はセリ場に櫓を建て庚申坂新地の遊女や芸者が繰り出し艶やかだったと古老は話します。
同じ、地蔵盆では、州傳寺の「一時地蔵尊祭」と天澤寺の「身代わり地蔵尊祭」と重なって近郷近在からたくさんの踊り子が来場しました。
また、まちはずれと呼ばれる八幡町は、旧城下堺黒門外に「踊り場」という俗称の残る場所に櫓が立ち、城下堺に住む旧方外の民もこの日だけは浴衣を着て踊れた。
すぐ目の前に太鼓屋がありいつ太鼓が破れても大丈夫だった。
北町は天神様前、荒町は馬頭観音前、大町は紫雲寺境内であったと記録されています。



| ryuichi | 05:26 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下八幡町 |