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三春物語741番「愛宕ノ下大名小路」三春江戸上屋敷


「愛宕ノ下大名小路」三春江戸上屋敷新橋から芝に至る地域を描いた江戸切絵図の尾張屋版「芝口南西久保愛宕下之図」があります。

江戸切絵図は正確に測量して描いたものではありませんが、現在の地図と比べると若干のズレはみられるますが、現在の東京に重なるようにして江戸の町が浮かび上がってきます。
私など、東京散策の折には、この江戸切絵図をたよりに旧江戸城下をか闊歩しています

新橋駅から歩いて15分くらいのところにある「愛宕ノ下大名小路」とあるのは現在のレンガ通りのことです。
ここは現在慈恵医大附属病院の近代的な高層病棟が建っています。
江戸期のこの付近は、三春五万石秋田安房守の上屋敷があった場所に当たります。

大名小路を挟んで松平陸奥守(仙台藩伊達家)の中屋敷。
周辺には浅野内匠頭が切腹した一関田村右京太夫(愛姫縁田村家末裔)の上屋敷など、大名屋敷がずらりと並んでいました。

御存じ桜吹雪の遠山金四郎や幕府の剣術指南役・柳生対馬守などという名前も見えます。
この付近は、町家などはわずかで、江戸の武家が建ち並ぶの武家町でした。

 

江戸大名屋敷といわれてもなじみが薄いかもしれませんが、国持ち大名の参勤交代が江戸幕府によって制度化さ、諸藩にとってはとても重要な江戸の出先機関でした。

藩主が多くの家臣ととも に政務を執るのが上屋敷で、上屋敷が火事に遭ったときの避難所や元藩主の隠居所などに使われたのが中屋敷とされています

いずれも登城に便利な江戸城近くにあり、藩主の江戸常駐の妻子の住まいでもありました。
このほか江戸城から離れた場所に庭園や別荘として使われる下屋敷がありました。

五万石の三春藩でも、上屋敷は西新橋慈恵医大付近、中屋敷は、港区麻布台にある現ロシア大使館付近、そして下屋敷は西新宿東京都庁付近にありました。
いづれも江戸の大火で若干の屋敷替えや移動があったと記録されています。

どの屋敷も幕府から与えられたもので、藩主は参勤交代に伴って屋敷を拠点にした江戸での暮らしと、国許での暮らしを交互に送っていたのですが、江戸市中の火災の多さと移動費、そして江戸での生活費などは諸藩の藩財政を圧迫する要因となっています。


| ryuichi | 05:49 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記 |