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三春物語742番「秋田実季公朝熊蟄居と穹静院(片山氏)」
秋田実季公と穹静院(片山)


寛永7年、徳川幕府の命令で、わずかな近習を引きれ、伊勢の朝熊へ蟄居を命じられます。

長男の俊季との不和に加え、従来からの檜山系湊系による家臣間の対立が背後にあったのではないかと考えられています。

実季公には、正室と側室との間に、6人の男子と3人の女子をもうけます。

初代三春藩主の俊季公とその実弟、隼人正季信公の母は、正室の円光院で、細川右京太夫昭元と織田信長の娘との間に生まれた娘で、徳川二代将軍秀忠夫人崇源院とは従姉妹にあたり、俊季公は三代将軍家光とは又従兄弟という関係から、本来は外様大名ですが、譜代大名同様の待遇を受けていました。
 
三春秋田に仕官した細川氏が、秋田十三湊以来の親族重臣が居るなかで、宍戸や三春藩政上での位置に大きく影響して行きます。

側室筆頭の瑞峰院は、荒木家の出身で、正室である円光院の侍女でしたが、実季の寵愛を受けるようになり、側室として、お国、季次、季則をもうけます。

このため、実家の当主である荒木高次が三百石で召し出され、その子高綱以来、三春藩内における荒木氏の存在が大きくなって行きます。
 


尚、別格の重臣として北畠秋田(浪岡)氏がありますが、出身地は伊勢です。

子の実季公の朝熊時代に仕えて、浪岡右近が、秋田の姓を頂いて500石で仕えます。

後に三春藩へ仕官し、寛文年間にさらに500石の加増を受け別格の重臣となり幕末まで続きます。

三平季長公とお振方の母は、「下国家湊両家辨」には天授院としていますが詳細は伝わっていません。




お振方は、後に光舜院と称して、三春に移り住み、没するまで城坂東裏の屋敷で生涯独身で過ごします。
 


実季公は、反抗的として徳川幕府から伊勢朝熊の永松庵に蟄居幽閉されますが、片山氏とその娘お千世方だけが一緒に移りますが、実季公に先立ち亡くなっています。
お千世方は、実季公の第二子であると思われます。

その母片山氏と称しますがその出身は明らかではありません。


 片山というのは姓であり、俗名は明らかにはなっていませんが、後年落飾した後は法名を穹静院と号しています。

片山は、5歳になる実季の娘・千世姫の生母であり、母子共々朝熊への隠遁の旅に随行します。

千世姫は、実季が齢50歳を過ぎた頃に出来た娘であり、片山は実季に最も深く愛された側室であった事だろうと想像がつきます。

 しかし、そんな平穏な暮らしの中、寛永14年(1637)3月、実季と片山の愛娘千世姫が、小児喘息やリウマチを患っていたとされ懸命な看護も虚しく、わずか11歳で病没します。
 
千世姫の死後、片山は落飾し、穹静院と号し、実季と共に娘の菩提を弔いながら余生を送ります。

そして、片山本人も承応元年(1652)12月、夫である実季に見守られながらその生涯に幕を降ろします。

実季候は、それから8年後の1660年1月11日死去 (万治2年11月29日) 享年84歳。

朝熊での実季は、宗実或いは凍蚓と号して、和歌・俳諧をよくし、仏門に帰依しています。

また、薬にも関心を深くし、風雅の生活を堪能しました。

また、鎌倉から仏師を呼び、自分の肖像を刻ませ、床の上に置いて、「凍蚓、茶を食べよ、食参れ」などと共のように相手にしていたと言います。

「我が庵は道みえぬまで茂りぬる すすきの絲の心ぼそしや」涷蚓(実季雅号)

かつての蝦夷探題日ノ本将軍として五大洲に覇を称えた海将が、草だらけの庵に住む身となった心細さを表して、秋の風情とともに伝わってきます。








| ryuichi | 06:53 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主 安東秋田氏 |