CALENDAR
S M T W T F S
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31       
<<  2024 - 03  >>
CATEGORIES
ARCHIVES
PROFILE
    k1
OTHERS




三春物語824番「松明(たいまつ)あかし」田村臣柳作髙橋氏と二階堂臣髙橋氏



須賀川市翠ヶ丘公園の五老山で、11月9日(土)に行われた、日本三大火祭りの一つ、須賀川の「松明(たいまつ)あかし」

由来を辿れば、三春田村家や伊達政宗が浮かび上がってきます。
 天正17年(1589年)6月、伊達政宗率いる伊達勢は、会津黒川城(若松)城主芦名氏を滅ぼし、その余勢をかって須賀川城の攻略を企てます。
当時の須賀川城主は、気丈な女城主と近隣に知れ渡っていた二階堂盛義の後室“大乗院”で、政宗の伯母と云う関係でもありました。

また、伊達勢が攻撃した会津黒川城主芦名氏は、この大乗院の嫡子である盛隆が城主をしていたこともあって伊達に降伏することを由とはしませんでした。

これにより、伊達政宗は大軍を率いて須賀川を東西に流れる釈迦堂川の北側にある陣場山に本陣を構え、二階堂氏のいる釈迦堂川を挟んで合戦が始まります。



 しかし、伊達勢対二階堂勢での形成は、多勢に無勢で絶対不利な状況。
その上、伊達に内通していた二階堂家重臣の守谷筑後守の裏切りにより、須賀川城はあえなく落城。


「松明あかし」は、この戦いで戦死した多くの人々の霊を弔うために行われるようになった行事です。

 尚、この五老山は、この戦いの7年前におこなわれた、二階堂氏対田村氏による合戦の和睦に由来します。
資料によると、天正9年、三春城主・田村清顕方と須賀川城主・二階堂盛義の老臣5人が和睦の交渉をしたことから、五老山と呼ばれるようになったところです。

尚、、確たる証拠は無く、想像の域を脱っしありませんが、三春昭進堂当家の祖先である三春在込木の柳作髙橋氏.
この時期に二階堂家家臣の髙橋氏(髙橋菊阿弥(時衆)、髙橋右衛門の名前が見えます)が記録されていますが、当時、伊達氏組下の三春田村氏(二階堂氏同様伊達とは婚姻関係・政宗の大叔母在家)の家臣である柳作髙橋氏が、家名存続の手法として分家して、その分家を、二階堂氏へ下し、下級武士として合算・与力したのではないかと考えています。

戦国当時は、家名存続の為に分家して、敵味方へ帰参し与力して分かれて戦うというのは常套手段とされていました。

“武士は二君に仕えず”とは、江戸期の江戸幕府(徳川八代吉宗の頃か?)による儒教・朱子学での、思想統制の産物でしたよね。



三春昭進堂 髙橋龍一


| ryuichi | 05:04 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春昭進堂菓匠蒼龍 ::三春昭進堂髙橋 |