CALENDAR
S M T W T F S
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31       
<<  2024 - 03  >>
CATEGORIES
ARCHIVES
PROFILE
    k1
OTHERS




三春物語750番「三春影山氏」
三春の影山氏

現三春町で、影山姓は、三春城外の旧舞木村や旧鷹巣村に多く見られます。
その由来は、
昔、上舞木にある権現さまと呼ばれる二社大明神(現直毘神社)の境内に大きな神木がありました。
夕方になると、このご神木の影が十町も延びた。
木の影が届いたところ(現三春茶屋付近)は、「日影」と名付けられた。
明治期の磐越東線の開通に伴い、日影付近よりさくら川を渡って鷹巣村へ向かう橋を「日影橋」と名付けられます。

三春での一般論になりますが、三春の影山姓は、明治8年の平民苗字必称義務令により、つけられた家々が多く、この二社大明神の大きなご神木に由来し、二社大明神のある舞木集落や、日影の裏手の鷹巣集落に多く存在しています。
特に、二社大明神の御膝元にある上舞木集落と下舞木集落では、その過半数の家が影山姓を名乗っています。

「日影」という言葉の意味はもともと「太陽の光」とか「日差し」の意味で、神社の日影=神の光が届く=大明神の庇護の下=神域・氏子の住む場所、を意味しているんだろうと考えています。

稲作農業に適した、太陽の日が当たる場所と云った地形・土地、さらには稲作の裕福な米農家(百姓)に関連する姓ではないかと思っています。



因みにですが、伊達政宗によって落城した須賀川城主二階堂家家臣に、影山与惣六郎、影山長三郎、影山又一郎の名前を見ることが出来ます。
また、同じ二階堂氏の旗本衆に、三春の影山氏の本拠地とみられる現三春町舞木の名前にもなっている、舞木助右衛門の名前も、見ることが出来ます。
この辺りから推測しますと、当家の名字である高橋家と同じ経路が見えてきます。

三春昭進堂当家の祖先である三春在込木の柳作髙橋氏もこの時期に二階堂家家臣の髙橋氏(髙橋菊阿弥(時衆)、髙橋右衛門の名前が見えます)が、伊達氏組下の三春田村氏(二階堂氏同様伊達とは婚姻関係・政宗の大叔母在家)の家臣である、柳作髙橋氏が、家名存続の手法として分家して、その分家を、二階堂氏へ下し、下級武士として合算・与力したのではないかと考えています。

三春の影山氏も、これに倣いで同じ系図ではないかと推測します。
戦国大名田村氏は、御存じのとおり伊達家へ吸収されますが、その折に田村家の家臣より橋本氏、田母上氏、真田氏、貝山氏など数家が伊達家への仕官が叶いました。

それ以外は、農兵分離以前の戦国時代当時の不変の慣習として帰農し先祖伝来と土地を守る土豪に戻りました。
戦国当時は、家名存続の為に分家して、敵味方へ帰参し与力して分かれて戦うというのは常套手段とされていました。

“武士は二君に仕えず”とは、江戸期の江戸幕府(徳川八代吉宗の頃か?)による儒教・朱子学での、思想統制の産物でしたよね。

三春昭進堂 髙橋龍一



| ryuichi | 05:42 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧岩江村 |