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大和ミュージアムH18.8
三年前に行った、呉市にある戦艦大和ミュージアムです。
10分の1のスケールで旧日本海軍戦艦大和が展示してあります。
その迫力は圧巻です。
同ミュージアム内には、旧海軍三菱零式戦闘機「零戦」や小型潜水艦「海龍」が展示されています。
 外の展示してあるのは、呉軍港内でなぞの爆沈した戦艦「陸奥」の主砲の一部と、スクリューそして舵があります。


  「旧日本海軍の思想」
 広島市の宇品港。向かいの大きな島は江田島である。かつて海軍兵学校があった島であり、多くの名将たちが巣立って行った。
南雲忠一大将も、大西瀧次郎中将も、神重徳大佐も、関行男中佐も、仁科関夫少佐も、三上卓中尉も、皆ここで学んだわけである。
 海軍兵学校の建物の多くは現存し、海上自衛隊の幹部候補生学校、第一術科学校として使われている。単に建物をそのまま使っているだけでなく、ここにいる人たちも海軍兵学校の伝統を受け継いでいるという誇りをもっているようだ。
ここには敗戦によって失われた真の日本、歴史と伝統の国・日本が残っているのかもしれない。
 三島由紀夫も言っていた。
「戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態に落ち込んでゆき、」「政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力慾、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は、ただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を冒涜してゆく」中で「今や自衛隊にのみ真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢見た」と。
自衛隊こそ「生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であった」と。
 海軍兵学校の見学は、当直下士官の引率の下で行われる。
 受付を済ませると、まずロビーでビデオを見ることになる。訓練の様子や隊員の日常生活を説明したビデオだ。国防のために日夜精励努力している姿には、本当に頭が下がる。
 しかし、何かが足りないような気がする。先ほど感じた高揚感と期待が急速にしぼんでいく。いったい何が欠けているのだろう。考えてみると、30分近いビデオの中で、防衛庁・自衛隊が莫大な国家予算を使って何を守ろうとしているのかにまったく言及していないのである。
 これは、単にビデオの編集の問題ではなく、自衛隊が抱える根元的な問題である。自衛隊には「建軍の本義」がない。自衛隊は、「警察予備隊」「軍隊ではない実力組織」としてスタートしたため、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられてこなかった。これでは、いくら最新兵器を揃えても「魂の死んだ巨大な武器庫」(三島由紀夫)にすぎない。「海上自衛隊は、帝国海軍ではない」この当たり前のことに私はようやく気づいた。そして大変なショックを受けた。
帝国海軍は滅びたのだ。自分が今いるのは、海軍兵学校ではなく、海上自衛隊の幹部候補生学校・第一術科学校なのだ。
 暗澹たる気分でトボトボと引率の自衛隊員の後をついていく。うつむいていた顔をふと上げると、パルテノン神殿を思わせる円柱が並んだ堂々たる建物が目に飛び込んできた。教育参考館である。この建物の建設費は全て寄附でまかなわれたという。愛国心に溢れた人がかつては大勢いたものである。
 内部には、海軍関係の資料が展示されていて、素晴らしい展示がずらりと揃っている。その中でも特に興味を惹かれたのは、やはり特攻関係の展示であった。
 断腸の思いで神風特別攻撃隊を編制した大西瀧次郎中将の遺影がある。立派な軍人は数多くいるが、大西中将ほど戦局打開のために知恵を絞った人はいないだろう。そして、自己保身や名誉欲などとはまったく無縁で、あらゆる非難を一身に受け止めた。敗戦の日に特攻隊の英霊に深謝する遺書を残して割腹した最期も見事である。
 特攻作戦は航空機だけで行われたわけではない。小型潜水艦による特攻もある。いわゆる人間魚雷「回天」である。回天は、簡単に言えば人間が乗って操縦できる魚雷である。炸薬量は通常の魚雷の数倍に当たる1.5トンにも及び、大型空母を一撃で沈める破壊力をもっていた。回天の実物は、靖国神社へ行けば見られる。
 この回天は、軍上層部が命じて開発された兵器ではなく、青年将校が発案し、開発を嘆願して実現した兵器である。その青年将校が、黒木博司少佐と仁科関夫少佐である。この二人の遺影も教育参考館に展示されている。黒木少佐は訓練中の事故で殉職され、仁科少佐は回天隊の最初の出撃に参加し、見事に敵艦船を撃沈して戦死された。この名誉の戦死を遂げられた時、仁科少佐はまだ21歳であった。
 人生は20年あれば十分なのだ。それだけの時間があれば、成すべきことを成し遂げることは可能なのである。それができない、あるいは自分が何を成すべきかさえわからないのは、自分自身に問題があるからに違いない。三島由紀夫の遺作となった『豊饒の海』4部作でも、主人公は必ず20歳で死んだ。何度生まれ変わっても20歳で死んだ。とすれば、今の自分は、単なる死に損ないにすぎない。
 教育参考館の前には、戦艦「大和」の46センチ主砲弾が置かれている。対艦射撃用の徹甲弾だ。
「46センチ砲」の名が示すように砲弾の直径は46センチで、長さ2メートル、重さ1.5トンという巨弾である。最大射程は42キロ、この巨弾が42キロも飛んだわけである。
 しかしながら、展示品として来訪者を驚嘆させるこの巨弾も、実戦で敵艦に向けて発射されたのはフィリピンのレイテ島沖での1回きりであった。そして、敵の戦艦に向けて発射されることは一度もなかった。
 実際に大和が戦った相手は航空機であり、対空戦の主役は25ミリ機銃である。主砲の出番はほとんどない。というのは、主砲が射撃を行う場合、甲板上の兵員は退避しないと爆風で吹き飛ばされてしまう。つまり、25ミリ機銃は使えなくなってしまう。対空戦で25ミリ機銃をフル稼働させるためには、主砲を沈黙させるしかないのである。
 大和の最後の出撃となった沖縄特攻でも、主砲はわずか27発の対空弾を発射しただけである。大和の主砲は9門あるので、1門あたり3発、ほとんど火を噴くことはなかったということである。逆に、多数の魚雷を浴びて艦が大きく傾いたとき、弾薬庫の46センチ砲弾が滑り落ちて行って爆発し、沈没の原因になったとも言われている。
 技術の粋を集めて造られた世界一の兵器でありながら、まったく活躍の場がないまま無用の長物と化し、自爆して最期を迎えた46センチ砲。目の前の巨弾は、物理的存在による驚嘆とともに、その悲劇的運命による感傷を、見る者の心に呼び起こす。
 教育参考館から少し歩くと、美しい赤レンガの建物の前に出る。戦前は海軍兵学校の生徒館だった建物であり、現在は海上自衛隊幹部候補生学校の学生館として使われている。まったく汚れがなく、どう見ても100年以上前に建設された建物には見えない。新築と言われても信じてしまそうである。東京・霞ヶ関にある法務省旧庁舎の薄汚い赤レンガとは雲泥の差である。これは、環境の違いによるのであろうか、それとも手入れの違いによるのであろうか。
 正面中央の玄関の上には、金色の錨マークが輝いている。かつては菊の御紋章が輝いていたそうである。あれが菊の御紋章だったらどんなに素晴らしいだろう。帝国海軍に想いを馳せていた私の意識は、ここで再び自衛隊との差という点に引き戻される。
 自衛隊は、天皇直属の軍隊ではない。天皇親率の軍隊でもない。政府の一機関にすぎない。自衛隊員は政府職員である。彼らは「国を守る」と言う場合、国体と政体の区別をしているのだろうか。政府が守るのは政体だとすれば、国体は誰が守るのか。
 今、私には三島由紀夫が聞いたのと同じ英霊の悲憤慷慨がはっきりと聞こえる。
 「平和は世にみちみち、人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交わし、利害は錯綜し、敵味方も相結び、外国の金銭は人らを走らせ、もはや戦いを欲せざる者は卑劣をも愛し、よこしまなる戦いのみ陰にはびこり、偽りの人間主義をたつきの糧となし、信義もその力を喪い、魂は悉く腐蝕せられ、真実はおおいかくされ、真情は病み、大ビルは建てども大義は崩壊し、朝な朝な昇る日はスモッグに曇り、感情は鈍磨し、鋭角は摩滅し、烈しきもの、雄々しき魂は地を払う。血潮はことごとく汚れて平和に澱み、ほとばしる清き血潮は涸れ果てぬ。天翔けるものは翼を折られ、不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑う。」
 自衛隊が物質主義から脱却し、自分たちの武器は大和魂であることに気づき、名誉ある国軍となることを願ってやまない。


| ryuichi | 10:17 | comments (0) | trackback (x) | 🌸島根石見國浜田 曹洞宗紅蓮山観音寺記::塵壺西国漫遊記 |
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