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三春物語833番田村大元神社~三春昭進堂髙橋家寄進録


晩秋の旧三春領内総鎮守「大元帥明王社」の田村大元神社です。

銀杏が良い雰囲気を醸し出してくれています。





本殿から望む、拝殿、熊野神社、神楽殿、宝物殿、そして仁王門です。

私はこの角度から見る境内が大好きです。



社務所側から望む、仁王門です。
拝殿と神楽殿、宝物殿を望みます。



その境内にある、明治32年の拝殿再建時の寄付芳名録石版です。

よく見ると、中郷村の項目に、当三春昭進堂・髙橋家の本家である、込木柳作の髙橋家当主市三郎の名前が見えます。

尚、文献が乏しく、口伝の域を脱しませんが、三春昭進堂当家の祖先である三春在込木の柳作髙橋氏は、戦国期の三春田村氏の組下で、柳作を知行、舘・屋敷を構えます。

後に、伊達派と相馬派の内紛の時には伊達派に組し、太閤秀吉の奥州仕置きにて、田村氏の改易されると、この知行地にて名主・村司として帰農します。




当時、須賀川城主二階堂氏の家臣にも、髙橋菊阿弥(時衆)、髙橋右衛門の名前が記録されていますが、伊達氏組下の三春田村氏(二階堂氏同様伊達とは婚姻関係・政宗の大叔母在家)の旗下である柳作髙橋氏が、家名存続の手法として分家して、その分家を、二階堂氏へ下し、合算・与力したのではないかと考えています。



戦国当時は、家名存続の為に分家して、敵味方へ帰参し与力して分かれて戦うというのは常套手段とされていました。

“武士は二君に仕えず”とは、江戸期の徳川幕府による儒教・朱子学での、思想統制の産物でしたよね。

武士が支配階級として身分的にも分化し、農・漁民や町人が支配される側に明確にされたのは、豊臣・徳川政権の確立による農兵分離が全国的に波及してからの事です。
もちろん、武家社会は、平家や源氏に始まり、鎌倉幕府成立後にその地位を確立していきますが、生産力も充分でないなかで常備軍団を組織的に養うことは困難でした。

そのため、当時の常識として武士は、戦時以外は所領にて帰農し、地域の豪族として存在します。

これは、戦国時代だけでなく、それ以前にも放浪した農民や商人が地方豪族となったり、地域豪族の利権・境界争いに農民も武士として盛んに動員されています。
当時は、全ての領民が戦闘員だったといえます。
そして、その生活基盤となる所領を守るために一族郎党が、分家制度を取り隣接する他の豪族にも組して細分化してゆき、所領と一族の安全を確保していったと考えられます




三春昭進堂髙橋の場所は、当時は、本家の所有でした。
この後に、市三郎の弟で当家初代の民四朗が、正式の分家をして、妻おたりを娶って商いを始めました。



中郷の名士、お歴々の方々の名前が見えます。



こちらは、三春町の当時の名士の方々の芳名です。
渡辺平八はじめ、川又彦十郎、大越巳木蔵、内藤傳之助、橋元柳平等時の名士のお名前が並びます。



こちらは、昭和3年の本殿、拝殿、仁王門の茅葺から銅板葺きへの屋根替えの時の寄付芳名石版です。



当家初代、髙橋民四朗の名前が見えます。



まだ三春昭進堂の屋号をついておらず、民さん家としておたりさんがせっせと商売に精を出していたんでしょうね。



先々代当主髙橋傳造の名前も拝殿の木番にあります。



そして、八幡宮、熊野宮の屋根替えの寄付者芳名版には、先代の髙橋民夫の名前もしっかりまります。



そして、先の「平成の大修復・屋根替え」での寄付芳名石版です。



私の名前が記載されています。



さらには、当時寄付をお願いした友人の方々のお名前も見えます。



渡辺弥七さん、そして娘の杏里、あずささん、中町の桑原親分・・・・



新野秋徳さまや渡辺日向さま、新野恭朗さま等、様々な方々にご協力を頂きました。



吉村管工さんや、伊藤肉店様、渡辺床屋さま、等々・・・



本当にありがたいことです。

石版という半永久のツールに、一緒に名前がある。
この後、何十年後、もしくは百年後、いやいやもっと後の方々が見たときに何を感じてくれるのか・・・
今から楽しみです!



晩秋の一時、そんな感傷に浸ってみました。

この田村大元神社には、子供のころから祭礼や遊びなどで訪れている場所です。
自宅から徒歩5分です。

子供の頃は、何とこの狭い境内でソフトボールをしていました。
燈籠にボールが当たりイレギラー!屋根に当ればホームラン等々・・・
また、祭礼では、何となく決まりがあり、私の町内(3つの町内で構成)のものだけが祭礼のメインに参加できる仕組みとなっていまして、小学校の低学年での、錦旗・神号旗・五色旗持ち、楽人の太鼓持ち~から始まり、
高学年になり、三匹獅子やササラ(夏祭りですので蛙の鳴き声役)に参加できました。
もちろん、夏休みに十分使えるくらいの、お小遣いがもらえました。

長じて、20代の前半から別火講中に入り、夏季例大祭の一切を執り行います。
これは、三春でも講中で祭礼を行っているのはこの神社だけです。
別火講中の仕事は、一番組と二番組に、分かれていまして、それぞれ各年交替で、長獅子と呼ばれる、20人ほどが入る獅子舞の奉納と、例大祭祭事全般の執行です。
と以前寄付集めや獅子舞の練習などで一か月間のロングランです。

尚、祭典係りの組は二泊三日の「御籠り」があり、神社を守護します。

私などこの時とばかりに、社殿や宝物殿を、仁王門(隋神門)の中、縁の下まで家探しして廃仏毀釈や明治大正昭和の大戦の痕跡を探し出してみました。
これは、現在の宮司では立場上出来ないことですよね?そこで饅頭屋の私の出番となったわけです・・・・

さらには、境内の地面に埋没していた石碑や石仏なども5,6点ほど発掘してみました。
これらは、すべて真言宗や修験の名残りの貴重な遺物です。




三春昭進堂 髙橋龍一






| ryuichi | 05:10 | comments (x) | trackback (x) | 三春総鎮守 大元帥明王(田村大元神社)::三春藩領内総鎮守大元帥明王社(田村大元神社) |