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塵壺平成27年6月号第287番「伊達政宗と旧三春藩領内総鎮守大元帥明王社(現田村大元神社)」


    伊達政宗と旧三春藩領内総鎮守大元帥明王社(現田村大元神社)

梅雨の便りが届くころ、三春城下新町では鎮守田村大元神社の祭礼準備がはじまります。

この社は、その昔三春舞鶴城"三の丸"だった旧三春藩領内総鎮守大元帥明王社(別当泰平寺・学頭坊、後に秋田氏代には真照寺)で、戦国武将三春田村氏のお家騒動を収束した伊達政宗が三春滞在中の宿所としていたことがあります。

政宗滞在中に、田村家重臣たちが宴席を設けたという記録が残っていますが、政宗以下伊達家重臣一同と酒を酌み交わし、どのようなおもてなしをしたのか? 
また、どのようにしてこの社への石段を馬で駆け上がったのか? 
さらには同じ三春城下の景色を見ていたのか?
 或いは生き残りをかけた近郷近在の地侍達がこぞって御目通りを願った心境は?
等々、遠い戦国時代がより身近に感じます。

三春田村氏初代義顕は三春入府の際、永正元年(1504)に守山山中(現在の郡山市田村町)より、田村庄領内総鎮守としてこの「大元帥明王」の移築を手始めに、三春舞鶴城築城や領国基盤整備に取り掛かり防御体制を構築します。

しかし、戦国群雄が割拠と云われるこの時代、三春田村領の周辺には、北に伊達氏、岩代大内氏、西に会津蘆名氏、東に相馬氏、南に二階堂氏、佐竹氏、岩城氏などの戦国大名がひしめき合い度々侵攻が繰り返されていました。

また、田村家の組織編制の上で、織田信長以前の中世的な全国の武将と同じく、農兵分離が出来ておらず、それぞれの家臣がそれぞれ先祖伝来の領地をもち、城主といえ家中掌握が弱かったと考えられます。そのために、独立性の強い在地領主層は、度々周辺の武将から調略を受け、各々が家名存続・自領安堵の為に、抵抗・離反が度々起こっていました。まさに「四面楚歌」の状態です。




こうした状況を打破しようと、田村家では、二代隆顕に、伊達家当主稙宗の娘を妻に迎え伊達氏の支援を受けて窮地を防ごうと画策し、三代清顕は、相馬氏の娘を娶り東の備えを固めますが根本的な状況は変りません。
 後に清顕は、再び伊達氏との関係をより強固なものにするために、伊達政宗に一人娘である"愛姫"を嫁がせ、三春田村氏の存続を図ります。以後、この群雄割拠に時代に三春田
村氏が、伊達勢と連合して自国防衛と領地獲得のために対外戦を挑んでいきますが、その最中に清顕が急死します。

当時清顕には男子がいなかったため、清顕後室(相馬氏の娘)を立て、伊達家を後ろ盾に家中が一致結束し領内経営を目指しますが、清顕後室が相馬氏の娘であった関係から相馬氏を頼ろうとする田村顕盛(隆顕の弟で梅雪斎と号した小野新町城主)を筆頭とする相馬派が台頭しはじめ、清顕の大叔父田村宮内顕頼(月斎)や橋本刑部少輔顕徳など清顕の遺志を尊重した伊達派と対立します。



このような中で、田村領を狙った相馬義胤が田村家中の相馬派と結託して三春城入城を企てます。しかし、田村家中伊達派橋本刑部少輔顕徳らの活躍により、相馬勢は三春城揚土門まで攻めたてますが撃退されるという事案が発生します。
その後、これに端を発した、実質的には相馬氏と伊達氏の三春田村氏領をめぐる戦いで相馬・佐竹・芦名・二階堂勢と伊達・田村勢が安積郡郡山にて対峙した後の郡山合戦が起こります。

 この戦いに勝利した伊達政宗は三春城に入城、「田村仕置」と称される清顕後室の隠居と家中相馬派の一掃を実施します。
冒頭の清顕亡後の田村家中伊達派の重臣達が、政宗以下伊達成美、片倉景綱等の重臣たちを接待の為に大元帥明王社で宴席を設けたのもこの頃です。
私も、新町住として様々な形で社に登る機会に恵まれますが、時の流れで建物は違えども、現代まで脈々と繰り広げられてきた神事・祭事に参列し拝殿や社務所に座って一献傾けていますと、その神々しいほど荘厳な雰囲気とともに、戦国の世を乗り切り、生き延びようとした男たちの苦悩や迷い、そして決意など当時の息遣いと共にヒシヒシと伝わってくるようです。



蒼龍謹白   合掌    さすけねぇぞい三春!


| ryuichi | 05:18 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |