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三春物語953番「百杯宴碑及び回春堂~橋元家氏神様」の公園整備


大町の桜川沿いにある橋元回春堂氏神様と「百杯宴碑」が桜川の河川改修に伴って新たに整備され素晴らしい公園になりました。 

 大町裏の裏町通りにある三春人形館の桜川をはさんだ向側に、三春藩検断役・薬問屋「回春堂」橋元氏の「氏神様」があります。
ちょうど百杯宴の碑の裏側になります。

裏山は不動山と呼ばれ、かつて山腹には田村三十三観音一番札所「清水寺観音堂(現小鳥山清水寺)」、そして山の名前の由来となった「お不動尊」を祀ったお堂があったと云うことです。 
 
百盃宴の碑

 三春郷土人形館裏側の裏通り、桜川を挟んだ時計台の裏に小さな碑文の石碑があります。
これは幕末の三春藩儒学者川前紫渓という人が催した宴会に因んで建てられました。




正面の碑文を郡山出身の幕府昌平校教授方安積艮斎が書き、題字を三春出身の絵師中村寛亭が書いています。
 川前紫渓(神職名川前丹後)という人は、名を亀角、字を千攫といい紫渓は号です。

江戸末期の文化十四年、三春城下の生まれで、来光院(明治維新後は多賀明神に改名)という現裏町三春武道館辺りにあった、修験堂の修験者(のち神官)から儒者になった人です。
 


百杯宴の碑文には、紫渓はこよなく酒と竹を愛し、そのため友人から多くの書画と杯を贈られることが多かったと記されています。
 来光院に私塾を開いて、詞文より実学を基本とした水戸学派の流れを汲む学問を教え、多くの子弟を教育した事は有名ですが、中でも自由民権運動家、後の貴族院議長河野広中の師として「広中」の名を授けた人物として明治期に脚光を浴びました。
 


河野広中をはじめ幕末から明治初期にかけての三春は、三春藩内から、藩士・町民問わず、教養が高く、自由民権運動家を多く輩出してきました。

この基盤の中に、三春藩校明徳や佐久間庸軒の庸軒塾、そして、この来迎院が大きな役割を担っており、後に明治政府貴族院議長になった自由民権運動家・河野広中の学問的素養の基礎は、紫渓より学んだとされています。

私塾化した来光院には、数多くの旧三春藩内外の自由民権運動家がその門を叩いています。

 幕末の安政四年旧暦四月五日、送られた盃が百個に達した事を記念して、満開の桜の下で、志を一つにする門弟友人あわせて、総勢約40名が集い宴会を催しこれを称して「百盃宴」としました。




 穏やかで暖かな春の日差しを浴びて、幕末の動乱を間近に控えながらも、つかの間の平和に酔いしれたことでしょう。
 今は訪れる人も無く、ひっそりとその石碑だけがありますが、世界に通じる三春人の更なる飛躍を期待しているのではないでしょうか。
 



三春昭進堂 高橋龍一

| ryuichi | 05:04 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下大町 |