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塵壺平成27年10月号 「真田幸村と三春田村氏」



     真田幸村と三春田村氏
 
来年放送のNHK大河ドラマ「真田丸」
ご存じ“大阪の陣”で、大阪城に戦国最強の砦である「真田丸」を築き、最後まで徳川家康を苦しめた真田幸村(幸村は後世の通称で、本名は源次郎信繁)の生涯を描いた作品です。
堺雅人さんが幸村を、父真田昌幸を草刈正雄さん、兄信幸を大泉洋さんが演じます。
脚本も三谷幸喜さんということで今から楽しみです。


白石の片倉家墓所近くにある田村家墓所

この真田幸村と三春との意外な関係をご存知でしょうか?
伊達政宗夫人愛姫の父、三春城主田村清顕が跡継ぎが居ないまま亡くなると田村家中では家督をめぐり相馬派と伊達派争いが起こります。
亡くなった清顕の娘婿である伊達政宗がその調停に乗り出して、強大な武力をもって相馬派を駆逐し、田村家中をまとめて跡継ぎを清顕の甥である田村孫七郎宗季に決めます。



田村清顕公、定廣公、宗顕公、阿菖蒲、の中に、真田信繁(幸村)と刻まれた墓石もあります。



そして自身の名前から宗の一字を与え田村(牛縊)宗顕と名乗らせ三春城主に据えます。(田村仕置)
後に、その田村家当主宗顕が小田原北条攻めに参陣しなかった事を理由に、豊臣秀吉によって田村家は改易されてしまいます。(奥州仕置)
  このとき、宗顕を参陣させなかったのは、他でもない政宗でした。 そして田村領は伊達政宗に与えられてしまい、改易された宗顕をはじめ田村家中は 「政宗に謀られた!」 と大いに憤慨したと記録されています。



伊達政宗は改易した田村家中を米沢に招き、伊達家臣として召し抱えようとしますが、乗っ取られた形となった田村家中の政宗への不信感と反発は強く、家臣の多くはこれを断ります。
また、この件で実家である田村家の取り潰しを憂いた愛姫は、やはり正宗の誘いを断って伊具郡(宮城県)で隠遁していた宗顕と、その子である定廣を伊達家重臣の白石城主片倉家へ預け、白石(宮城県白石氏市)に移住するようはからいます。

後に、定廣は少納言喜多(政宗乳母)の名跡を継ぎ、片倉金兵衛と改名し仙台伊達藩士となりますが、その妻となったのが、やはり縁あって片倉家へ引き取られていた真田幸村の娘“阿菖蒲(おしよぶ)”でした。
宮城県白石市蔵本愛宕山の北西山麓にひっそりと田村家の墓所があります。
そこには、田村清顕、宗顕、定廣など三春田村の一族が眠ります。

その墓所の一角には「真田左衛門佐幸村御墓」と書かれた標識があり、真田幸村の霊を慰めるために建てられたとされる墓石もあります。
この幸村の供養碑建立の由来は、伝わってはいませんが、定廣の妻阿菖蒲が、嫁ぎ先の田村家の墓所に、わが父の弔う碑を建てたものでしょうか?



当時は、片倉守信(真田大八)が真田氏を名乗ったことに幕府が疑念を抱くなど、未だ幸村の印象を強める行為は憚られたのでしょうが、慶安元年(1648)、やはり片倉家へ身を寄せていた阿菖蒲の姉である“阿梅(おうめ)”が、幸村の菩提所として月心院(現在廃寺)を建立し、白石城下の当信寺に墓碑を建立したと伝えられています。


片倉氏の居城「白石城」

後に、三春田村氏の名跡は、愛姫の遺言により息子である伊達忠宗の三男宗良(愛姫の孫)が継ぎ、岩沼(現宮城県岩沼市)に3万石を与えられて田村右京を名乗り田村家を再興します。

さらに、山本周五郎著の小説「樅の木は残った」の題材となった「伊達騒動」を経て一関3万石(岩手県一関市)に移り、子孫は一関藩主として明治維新を迎えます。

尚、愛宕下の一関藩江戸藩邸は、忠臣蔵の浅野内匠頭長矩が預けられ切腹した屋敷としても知られています。
   
合掌          蒼龍謹白    拝

| ryuichi | 05:19 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |