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「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」~菓匠蒼龍
「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」払拭学習会
                          
三春出身の郷土史研究家橋本捨五郎さんを講師に迎えて、表記のジャレ唄「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」の三春狐の由来払しょくのための勉強会が、三春町国際交流会主催でライスレイクの家で始めっています。

「今この根も葉もないじゃれ唄を払拭していかないと・・・・」との思いからの勉強会立ち上げとなりました。

私も講師の捨五郎さんや国際交流会の石川会長からお誘いを受けまして、先月から参加しています。

本日、その勉強会がありますが、わたくし所用のため欠席となりますので、先月の私の考えた発言内容を記載させていただきます。

以下は私の考える三春狐です。

「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」
                          
髙橋龍一

”三春狐”の根拠とされる「仙台戊辰史」に記載された資料の真偽の信憑性の解明もせず、意図的にただ勢いだけで流布された戯言的狂歌(ジャレ唄)・・・だと私は思っています。

1.三春町民の知識階級の方々には、高度成長期まで「牛馬の競り市に来て、売買代金を庚申坂新地で使い果たした博労たちが、遊女を「三春狐」になぞらえてとして出来た戯言」程度の認識しか無かったはず。

2.明治の自由民権運動初期には、三春人を見れば皆自由民権運動家の疑いをかけられていた時期がある。

3.明治中期から昭和初期・三春は大変に景気が良い時期が訪れていました。
軍需景気(日清戦争・日露戦争・日独戦第一次大戦)

このじゃれ歌は、町民目線での歌=士族軽視

NHK「朝が来た」を見れば当時の藩御用商人が藩から受けた仕打ちがわかります。
武士の俸禄がコメで支給されそれをお金に両替して、さらにお金を藩に貸し付け、さんざん貸付金を棒引きした挙句に「戊辰の役」のために戦費を差し出します。
さらに、戊辰の役敗戦や明治維新、廃藩置県とともに長年の貸付金返済が不能になり、倒産した商家も少なくなかったはずです。
是ではこんな恨み言を盛りこんだ“じゃれ歌”を作っても“ばち”は当たらないでしょう・・・・

この詩をよくよく読み込んでみますと、
・三春狐(狐はお稲荷さんの使い)は三春藩を裏切ったと馬鹿にした歌ではなく。

・広い視野を持った筆頭家老西郷頼母を追い出し会津猪と揶揄された会津藩。

・二本松史観の解釈から出て来たであろう、ピョンピョン跳ねまるで了見違い棒(坊=世間知らずな子供)とまで揶揄された二本松藩
この両藩の戦争批判。

・そして奥羽列藩同盟の盟主伊達仙台藩の日和見主義への批判が読み取れます。
戊辰の役で、各藩士、町民さらには諸外国からの汚名を一番払拭したかったのは仙台藩ではなかったか?

それを三春狐に騙された=三春藩の裏切りと定義したのは、明治以降の三春の発展に対する会津や二本松の旧藩士ではなく、奥羽列藩同盟の盟主伊達藩からではなかったか?
 伊達仙台藩は戦後、越後長岡藩など奥羽越列藩同盟の戦費の各藩債権の返済を外国から迫られる。

・会津猪由来 
仙台藩家老坂英力・同但木土佐、米沢家老竹股美作、 参政木滑要人等東北諸藩の家老(代理含む)が参集し、仙台藩領苅田郡関宿にて会合して、会津藩の救済案を模索します。
そして、その結果を 会津藩の使節、家老の梶原平馬、伊東左太夫、山田貞助らに対して、救済嘆願の素案骨子を提示します。

・それは、藩主父子の蟄居、減封、鳥羽・伏見の戦いの 指揮者処罰でしたが、会津藩にはそれを理解できず、これを拒否してしまいます。

・尚、長州藩第一次征伐は藩主謹慎・三家老(福原越後・国司信濃・益田右衛門)の首を差し出す。第二次征伐では拒否・・戊辰戦争へ

これが会津戦争の悲劇の始まりです。
そして、ここから会津荘内同盟および奥羽列藩同盟(後に越後長岡)という虚構の構図が生まれます。

しかし、伊達藩にしても、米沢藩にしても、幕末・戊辰のこの時代藩の経済は疲弊し、戦の軍資金の捻出などとてもとても算段できる状況ではありません。
これは、全国の諸藩皆同じくです。
しかも、大阪や京都、長崎などに藩邸や出入り商人を持たなく、経済に疎い東北諸藩は尚更です。
本気で会津救済を考えていた藩などあるはずがなかったのが実情だったのではないでしょうか?

直接の当事者ではなくても、士族間の期間限定の”恨み言”の類で云われるならまだ、流布する輩に対してまだ同情の余地はありますが、三春町民すべてを対象として言われ続けることには違和感があります。

実は、私が“三春の歴史”に興味を持った理由もそこにありました。
それは、今から40年前、私が小学校の中・高学年のころ、そして中学生の時もありましたが、授業中に一部の会津・二本松史観の教員から上記のジャレ唄と共に三春藩卑下の話を聞き衝撃を受け、幼いながら「三春では歴史の話をしてはいけないんだ」と思っていました。


三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:02 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::講話集 |