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「三春~教科書には載らない歴史」   H27.7.22 於三春町老人クラブ連合会


「三春~教科書には載らない歴史」   H27.7.22 於老人クラブ連合会

三春昭進堂主人 髙橋龍一

1. はじめに・私が“三春の歴史”に興味を持ったわけ・・・
「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」

2.戦国以前
那智熊野権現大社の荘園・・領内にある熊野神社
・湯峰氏。熊野講中引導師・・・湯の峰温泉参拝の禊場(温泉)
 田村家の家臣・・・直参以外は田村庄司の配下(荘園の役人で各地より召集)
 ちなみに三春田村家は、平姓。田村庄司家は、藤原姓
三春過足の上石家(親戚)、坂上田村麿の東征の途中、滞在した土地で子を作りその子に「上石」の姓を与えた。福島県郡山市田村町金沢、中田町上石あり。宮崎県北諸県郡三股町樺山が本拠とされるが、兵庫県加東市上田(ウエダ)が本拠。
戦国時代末期、新潟県上越市にあって上杉謙信の家臣だったと伝える。




3.戦国田村氏・・・塵壺6月号参照
・戦国田村家・・・田村麻呂の末裔・平氏田村一族(南朝田村庄司一族とは異)
・田村麻呂・大和民族(渡来人末の父とアイヌ末の母から生まれた身長6尺のハーフ)

三春田村領の周辺には、北に伊達氏、岩代大内氏、西に会津蘆名氏、東に相馬氏、南に二階堂氏、佐竹氏、岩城氏などの戦国大名がひしめき合い度々侵攻が繰り返されていました。
 また、田村家の組織編制の上で、織田信長以前の中世的な全国の武将と同じく、農兵分離が出来ておらず、それぞれの家臣がそれぞれ先祖伝来の領地をもち、城主といえ家中掌握が弱かったと考えられます。
そのために、独立性の強い在地領主層は、度々周辺の武将から調略を受け、各々が家名存続・自領安堵の為に、抵抗・離反が度々起こっていました。まさに「四面楚歌」の状態です。

・伊達政宗の夫人愛姫の父田村清顕は三春城主でしたが、天正14(1586)年に亡くなりました。清顕には男子がいなかったため、相馬派と伊達派で家督を巡り争いがおきましたが、故清顕の婿である伊達政宗が調停に乗り出し、跡継ぎを清顕の甥であり伊達家の血も引く宗顕に定めました。(田村仕置)

しかし、当主・田村宗顕が小田原北条攻めに参陣しなかった事を理由に、豊臣秀吉によって田村家は改易されてしまいます。(奥州仕置)
  このとき、田村宗顕をあえて参陣させなかったのは、他でもない政宗でした。
 そして、結果的に田村領は伊達政宗に与えられてしまい、事実上の領地乗っ取りとなり、改易された宗顕をはじめ田村家中は 「政宗にしてやられた!」 と大いに憤慨したと記録されています。




後に、愛姫が片倉家の白石に清顕の甥となる田村宗顕ら田村家宗家を呼び寄せ、その子である牛縊(うしくびり)定廣が、少納言喜多(政宗乳母)の名跡を継ぎ、片倉金兵衛と改名し、妻となったのが、真田幸村(信繁)の娘・阿菖蒲でした。

尚、この時伊達家へ仕官した田村家旧臣は、田村本家である田村宗顕・牛縊定廣の田村本家、はじめ御代田氏、田母神氏、橋本氏、村田氏、石沢氏、常葉氏、中津川氏、郡司氏、大越氏など分家した11家(分家下士含めると28家)にとどまります。
※当時の分家とは、三春の自領地に親族をを残して伊達家へ仕官




4.安倍・安東家秋田家・・・大和朝廷とは別の渡来人の末裔・・米造り弥生文化
アテルイ末(安日王)アイヌ民族の長・・・安倍貞任・東和の旗まつり「東日流外三郡誌」
前九年の役・後三年の役・・・源義家に廃退より秋田以北に移住
その一派は、西国に退避・・・安倍晋三総理大臣の先祖・・倭寇・安倍水軍

・倭寇(海賊からの輸送船警備や運搬業を生業とする武装集団)と呼ばれる。
鎌倉初期・・本拠地青森十三湊が、大地震による大津波にて一夜にして壊滅(近年発掘証明)ムー大陸・・・・奥州藤原黄金文化
東南アジア沿岸や中国・九州地方の安倍・安東水軍が残存

・和船・青森ヒバ(水をはじく)の船・・・蒙古来襲・元寇で元(モンゴル)、高麗(古代朝鮮)連合の艦船撃退(神風伝説)
元は水軍を持っていない。・・高麗・南宋水軍・・日本海が荒れるのを知らないはずはない。
文永の役(1274)は10月中頃、弘安の役(1281)は6月末から7月初め・・ともに台風シーズン・・・その前に一ヶ月にわたり海上待機、船底には貝が多量付着
意図的に元の征服されている高麗は、元が負けることを想定していた?
鎌倉幕府としては表に出したくない・・・記録「東鏡」には無記載
室町幕府・江戸幕府―水軍は強力な戦力―隠しておきたい

5.三春と明治維新・徳川幕府300年の終焉
武士の給料は米で支給。経済はお金
・戊辰戦争の戦意・・・江戸幕府に経済政策の破たん・・各藩とも借財の山
戦争どころではない・・・・下級武士やそれ以外が主力・・奇兵隊や幕府歩兵
その前の戦争と云えば約200年前の島原の乱・・・武士の事務員化




6.戊辰戦争と三春・
・八重の桜から「会津藩と三春藩」の関係 
会津への道案内・・猪苗代・中山・熱海、湖南などの農民が率先して西軍を誘導
―会津防衛の戦略により、鶴ヶ城防衛と称して罪もない宿場や村々が焼き払われる。
会津藩士に対する恨み・・・日光街道・北越の村々・・郡上八幡凌霜隊

・徳川幕府・・主従関係あり・・・幕府恭順・瓦解・・戦いの名分がない
勝海舟の策略・・武士階級ではない新撰組残党や旧幕府歩兵の江戸から追放、蝦夷へ(っ神戸海軍兵学校時代に提唱・坂本龍馬)

旧幕臣大番組で組織する遊撃隊や関東周辺の小藩(請西藩)脱藩藩士などは、箱根迎撃失敗後、上野のお山の籠城そして会津へ
旧幕臣榎本武揚率いる旧幕府艦隊(旗艦開陽丸以下、回天、翔鶴、蟠龍)は静観、後残存艦蝦夷へ

7.会津戦争と三春・・・三春狐に騙された。

戦前まで「牛馬の競り市に来て、売買代金を庚申坂新地で使い果たした博労たちが、遊女を「三春狐」になぞらえてとして出来た戯言」程度の認識

明治中期から昭和初期・三春は大変に景気が良い時期が訪れていました。
軍需景気(日清戦争・日露戦争・日独戦第一次大戦)
三春出身の河野広中は、衆議院代議士から農商務大臣、さらには、衆議院議長にまで上り詰めていました。

・最後執政秋田春季静臥と大原家(薩摩藩)


・三春藩銃砲組・・・熊田嘉膳 水戸藩砲銃鋳造師範、後会津や相馬藩に出向
・・・・・・・・・町田貢 砲術指南役・幕府講武所調練指揮役。門人千人


当時の知識階級・・内戦の不利(欧米による日本侵略の足掛かり回避)
筆頭家老西郷頼母、家老神保修理、秋月悌次郎等、戦争回避を提唱、会津藩京都守護職“薪を背負って、渦中に飛び込む”が如くの愚挙
長岡藩家老河井継之助・武装中立(スイス王国)

広い視野を持った筆頭家老西郷頼母を追い出した会津藩が根底となる会津史観や、当時の社会情勢に疎い二本松史観の悲劇的解釈から出て来たであろう、

狂歌「会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」。

会津落城前に、意図的に広められたとしか考えようのない、「戊辰ノ役会津戦争」における奥羽越列藩同盟の敗因の一つに三春藩を陥れようとする意図が見え隠れする、この戯言狂歌の出所は・・・・尚、米沢藩や越後の新発田藩も同じいわれ様です。

*明治後期に伊達仙台藩の関係者によって書かれた「仙台藩記-復古記(13巻57頁)」が棚倉城攻防戦での三春藩の撤退を記載しているのみ。
山川大蔵浩著「会津藩始末記」明治四十四年発行にも記載なし。

・鳥羽伏見の戦い後、仙台伊達藩を中心とする奥羽の諸藩に対して、会津藩は軍事局に大きな期待を寄せていました。

・仙台藩家老坂英力・同但木土佐、米沢家老竹股美作、 参政木滑要人等東北諸藩の家老(代理含む)が参集し、仙台藩領苅田郡関宿にて会合して、会津藩の救済案を模索します。
そして、その結果を 会津藩の使節、家老の梶原平馬、伊東左太夫、山田貞助らに対して、救済嘆願の素案骨子を提示します。
・それは、藩主父子の蟄居、減封、鳥羽・伏見の戦いの 指揮者処罰でしたが、死に物狂いの会津藩にはそれを理解できず、これを拒否してしまいます。
・蛤御門の変・・長州藩第一次征伐は藩主謹慎・三家老(福原越後・国司信濃・益田右衛門)の首を差し出す。第二次征伐では拒否・・戊辰戦争へ
これが会津戦争の悲劇の始まりです。
そして、ここから奥羽越列藩同盟という虚構の構図が生まれます。

元禄以来、経済は貨幣が流通している・・武士の給金は米券で支給・・両替手数料
開国による品不足・物価上昇・・・庶民の暮らしの圧迫

伊達藩にしても、米沢藩にしても、幕末・戊辰のこの時代藩の経済は疲弊し、戦の軍資金の捻出などとてもとても算段できる状況ではありません。
これは、全国の諸藩皆同じくです。しかも、大阪や京都、長崎などに藩邸や出入り商人を持たなく、経済に疎い東北諸藩は尚更です。
本気で会津救済を考えていた藩などあるはずがなかったのが実情だったのではないでしょうか?しかし、悪役が欲しい・・・・。

これが明治になって再燃し、現在に至る・・・・
士族間の期間限定の”恨み言”の類で云われるならまだしも、ネチネチと三春町民すべてを対象として言われ続けることのに違和感があります。

まぁそれも、明治中期以降の三春の経済発展や河野広中の政界での活躍など、”やっかみ”や”嫉み”の素材・・・・

実は、私が“三春の歴史”に興味を持った理由もそこにありました。
それは、今から40年前、私が小学校の中・高学年のころ、そして中学生の時もありましたが、授業中に一部の会津・二本松史観の教員から上記のジャレ唄と共に三春藩卑下の話を聞き衝撃を受け、幼いながら「三春では歴史の話をしてはいけないんだ」思っていました。
しかし、年上がり上級学校で、新しい日本史を学び、さらには司馬遼太郎などを読んでから、日本史を教科書・勝者や大勢側からみた偏った歴史認識に疑問を持つようになったことがきっかけ。

8.まとめ~三春に狐は居なかった!
・三春に生まれたこと・住んでいることに誇りと自信を持つ
・唯歴史を調べるだけではなく、仕事の一部分として広く町民の方々に示していく。


| ryuichi | 22:35 | comments (x) | trackback (x) | 菓匠蒼龍 焦心録::講話集 |