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三春物語156番 日ノ本将軍 安東秋田氏
安東氏については安倍貞任の第二子、高星から始まるとされる。父貞任が討たれた後、津軽に流浪し、高星の子の時代に藤崎(青森県南津軽郡藤崎町)を本拠としたという。(一方鎌倉時代、得宗領だった藤崎の地に北条氏の代官として入った「身内人」の一族ではないかという説も出ている。『保暦間記』によれば「安東五郎ト云者。東夷ノ堅メニ義時ガ代官トソ」との記述があるという。
 鎌倉末期に安東氏は一族で争い(津軽大乱)、本拠に残った「上国安東家」と十三湊(とさみなと、北津軽郡市浦町)に拠った「下国安東家」に分裂した。上国安東家のその後は不明である。さらに下国安東家は「(土崎)湊安東家」(秋田市)と「十三湊安東家」に別れる。「十三湊安東家」は南部氏の攻撃により一時蝦夷地に逃れ、(このとき逃れた安東政季の弟が下国家政で「下之国之守護」に任じられたとされる。)本州に戻ったのち、十三湊から檜山(秋田県能代市)に本拠を移し「檜山安東家」となる。この「檜山」「湊」両安東氏が室町時代から並立していくことになり、「檜山」は「安東太郎」、「湊」が「安東二郎」を代々名乗るのである。
 戦国時代に入り、両安東氏は互いに争うが、「湊」の家系が絶え、愛季の弟である茂季が養子に入ることで実質的に「檜山」の安東愛季が「湊」「檜山」両安東家を併せ、安東氏(のちの秋田氏)が統一される。しかし、天正十五年(1587)、愛季が死んで幼い実季が跡を継ぐと、天正十六年末頃より、それに乗じて茂季の子である湊(安東)道季が湊氏の独立を画策して戸沢氏など近隣諸豪族と結んで反乱を起こした。この乱は翌十七年に至って大規模な争乱に発展し、実季は一時、男鹿の脇本城でなく守りの堅い檜山安東氏の本拠、檜山古城に退かざるを得ないなど、苦境に陥った。しかし実季側への由利衆らの加勢もあって湊氏の諸勢力を駆逐し、秋田周辺の領域や安東家一族を完全に掌中に収めるに至り、湊安東家の檜山安東家への吸収、安東家の統一を実現した。
しかし、この合戦は豊臣秀吉から「私戦」と見なされ、その弁明のために実季は上洛し秀吉に臣従、領知を安堵されて豊臣大名としての一歩を踏み出した。豊臣政権下では秋田地方の太閤蔵入地の代官に任命され、また朝鮮出兵のための安宅船や伏見作事用の材木を運送するなどの役目を担った。天正十九年(1591)ころより、安東実季は「秋田」姓を名乗り、一族にも「秋田」姓の下賜を行っている。
その後、秋田氏は関ヶ原合戦後の慶長七年(1602)には佐竹氏処分の余波を受けて常陸宍戸への転封を命じられた。そのため、秋田氏一族は「秋田」姓を廃し、先祖である安日(あび)が破れはしたが神武天皇の東征に対して生駒嶽で戦った、という伝承にちなんで「伊駒」姓を名乗った。(のち「秋田」姓に復姓)その後、実季は寛永七年(1630)に伊勢国朝熊へ閉門を命じられた。実季の子、俊季は正保二年(1645)に陸奥三春に移封され、幕末に至った。





| ryuichi | 06:27 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春藩主 安東秋田氏 |
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