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「中世の国際港湾都市十三湊」 日ノ本将軍三春藩主安倍ノ称安東秋田氏の本拠地紀行

五所川原市教育委員会発行の十三湊ガイドブック「十三千坊の世界と十三湊」 


五所川原市市浦歴史資料館

GW連休明けに、当店の代休として4月分も入れて3連休とさせていただきました。
丁度、その時に合わせていただいた所用があり、津軽の弘前まで出張と相成りました。


中世十三湊の町屋敷発掘跡案内板


中世十三湊の町屋敷発掘跡

“せっかく”ですので、青森です、日帰りは勿論ですが一泊ではもったいない・・というわけで二泊とさせていただき、ランプの宿として有名な黒石の青荷温泉と、西津軽日本海側の深浦町にある日本海に夕日が沈む黄金不老不死温泉に宿をとりました。




しかし、今回の青森みちくさ紀行の目的は、江戸期の三春藩主秋田氏の祖が本拠地とした津軽五所川原市にある、“中世の国際港湾都市”「十三湊」関連の資料館や遺構の見分、そして三沢にある寺山修司記念館の見学でした。



石浦歴史資料館のある中之島にかかる十三湖橋と十三湖




シジミが名産です。

秋田氏は、その祖を安部安東氏と称し、十三湊を中心に、平安末から鎌倉そして室町まで「日ノ本将軍」「安東水軍」「蝦夷探題」と称し、日本各地はもとより、北の樺太・サハリンから、朝鮮やシナ、東南アジアの沿岸なとに拠点を設けて、世界を相手に貿易をしていました。



市浦歴史資料館

東日流(津軽)十三湊は、平安末期ごろから鎌倉時代を経て室町期にかけて環日本海地域の中心国際港湾都市として、中世に書かれた「廻船式目(かいせんしきもく)」の中では「津軽十三の湊」として、博多や堺と並ぶ全国「三津七湊(さんしんしちそう)」の一つとして数えられ、その繁栄ぶりが伝えられています。

秋田氏祖の安倍氏とは、奈良と大阪に連なる「生駒山」には、安日彦(あびひこ)・長髄彦(ながすねひこ)兄弟を長とする一族が住んでいたと伝えられています。
しかし、神武天皇の東征により安倍一族が崩壊、朝廷の手が届かない東国へ落ちのびてきたと伝承されて、その子孫が安倍貞任となります。



十三湖が一望できる高台にある唐川城址


安倍貞任は、奥州に一大勢力を作り朝廷に抗します。朝廷は、その蝦夷征伐のため出羽の豪族清原氏や平泉藤原氏の助けをかりた鎮守府将軍源頼義、義家親子と戦います。
後に“前九年の役“と呼ばれるこの戦いで貞任は敗死して安倍氏は滅亡、当時3歳であった第二子の高星丸(たかあきまる)が、津軽へと落ち延び、後に安東氏を起こした始祖と言われています。
やがて、安東氏は「十三湊」を本拠地とし、巨大な勢力「安東水軍」率い、十三湊を国際貿易港として繁栄させていくことになります。

当時、樺太サハリン、蒙古(元)と高麗(朝鮮)、シナ沿岸州、さらには天竺(インド)の各国が相互に交流を行い、日本海、東シナ海、インド洋を中心とした一大交易文化圏を築いていったとされています。

そして中心として栄えた場所が、津軽(東日流)の十三湊だったと言われ、一説には、東シナ海沿岸からインド洋を超えて、紅海・中東まで手を広げていたとされています。




奥州十三湊日之本将軍 安倍安藤氏 顕彰の碑が建てられていました。



安東水軍の勢力を背景とする安東氏は、“日ノ本将軍”として“蝦夷探題”などの諸権利を鎌倉幕府執権北条氏から与えられており、幕府がいかに安東氏を重視していたかがうかがえます。

いわゆる海賊的なニュアンスで「倭寇(輸送船警備や運搬業を生業とする武装海運集団)」とされている部分もありますが、海賊が横行し、東南アジア各地の設けた、安東水軍の倭人街なども時折襲撃を受けるなど、当時の貿易は武装しなければならない状況もあました。

また、様々な国の海賊たちが何でもかんでも、倭寇のせいにしていたということもありますよね?

尚、元寇(蒙古来襲)で元(モンゴル)、高麗(古代朝鮮)連合の艦船撃退(神風伝説)も、近年沈没船の発掘調査が行われ、幕府の記録に残らない組織力を持った水軍の存在が証明され、安東水軍との関連も興味をそそります。


浜の明神跡に建立された湊神社


1991年から始まった十三港遺跡の発掘調査では、ほぼ当時のままの形で津軽十三湊の町並みや遺構が残っていることから、十三湊衰退の要因となった大津波来襲による壊滅も否定できなくなっています。

当時の西の博多に匹敵する東日本では最大規模の都市で、シナ製の陶磁器、高麗青磁器、西域の青ガラスなどが多数出土しており、広く海外とも交易を行っていた国際的な貿易都市だったことが証明されています。



湊神社拝殿



十三湊遺構の一つ「湊明神神社」です。
「湊」・・・三春にも馴染みの深い名前ですよね。


湊神社大鳥居

安東水軍の航海の安全を守って、かつての入り江にあったそうです。
今でも、航海の安全を祈願する十三湊の方々により崇拝され、きれいに整備されています。




帰りには、“せっかく”ですので、三春城下荒町にある高乾院前身、秋田時代の湊安東氏の菩提寺湊福寺の流れをくむ秋田土埼にある蒼龍寺。
そして城下新町の藩主秋田家祈願所の真照寺山内にある「古四王堂」の本山にあたる土崎古四王神社に参拝してきました。



蒼龍寺山門

この蒼龍寺の前身である、湊福寺は湊家初代の安東鹿季によって開基されたものと伝えられています。

三春藩主秋田俊季の父である安東実季が再興しますが、数年後、徳川幕府の政策による安東氏の常陸国転封にともない、実季の意向により寺もこれにより移設します。



曹洞宗蒼龍寺本堂

以後、宍戸藩、そして後の三春転封にともなった三春藩とも、安日山高乾院(宗旨も曹洞宗から臨済宗に改宗)として、安東・秋田氏の菩提寺となります。



蒼龍寺門前の見守り地蔵
 
安東秋田氏転封後に無住となった土崎の湊福寺は、慶長再興時の開山天室宗龍禅師(実季の叔父)にちなんで、延宝元年(1673年)寺号を蒼龍寺となして曹洞宗の禅寺として再興され現在につながってきます。
資料によれば、山門は湊城の裏門を移築したものとされていますが、今はありません。



秋田城麓に鎮座する、古四王神社。


三春城下新町にある三春藩主安東秋田氏祈願所真照寺山内にある古四王堂は、鎌倉期から戦国末期にかけて「日ノ本将軍」「蝦夷探題」として青森から蝦夷にかけて覇を唱えた海将安倍安東氏の直系三春藩主秋田氏が、三春国替えの際に祈願寺真照寺とともに建立したものです。


本拠地である青森十三湊時代は、出羽柵(後に秋田城)に近く、城の守りとして創建されたと見られる四天王寺と習合し、中世を通じて古四王大権現として崇敬されていました。




秋田城麓の土埼古四王神社

秋田県で最も格式の高い神社といわれています。

社殿によれば、崇神天皇が蝦夷平定のために北陸道(北陸・奥羽)へ派遣した四道将軍(しどうしょうぐん:『日本書紀』に登場する皇族の将軍)の一人・大彦命(おおひこのみこと)が、北門鎮護のために武甕槌命(たけみかづちのみこと)を「齶田浦の神(あぎたのうらかみ)」として祀られたことが始まりといわれています。


古四王神社拝殿

その後、斉明天皇4(658)年に秋田地方の遠征に来た阿部比羅夫(あべのひらふ)が、祖先である大彦命(大毘古命)を「古四王」と崇めて祀ったことから、「古四王神社」と称されるようになりました。




奈良時代以降は、蝦夷平定の拠点であった秋田城の守護神として秋田城内に祀られ、中世以降は産土神(土地の守り神)として豪族の安藤氏や秋田氏、近世以降は豪族・佐竹氏に武神として崇められました。



古四王神社参道階段と田村神社

また、境内には歴史の悪戯なんでしょう、征夷大将軍として蝦夷平定にやって来た坂上田村麻呂が古四王神社に戦勝祈願したことから、将軍を祀った田村神社があります。

真照寺は、三春古四王別当(管理長官)です。
尚、古四王天像四体は、秋田家の祖である「安倍貞任」の縁起を伝えていると云われますが、開帳はされていません。





春陽郷三春城下 御菓子 三春昭進堂



市浦歴史資料館、市浦地域活性化センター「十三亀山社中」代表の松橋照彦様からいただいたパンフレットです。
ありがとうございます。

お勧めいただいた、唐川城址の眺望は最高でした!

| ryuichi | 05:21 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主 安東秋田氏 |