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塵壺301号平成28年8月発行 徳一大師御縁 「立命安心」 



     徳一大師御縁 「立命安心」 

三春城下新町にある真照寺。
その池及び作庭工事が無事落慶の運びとなり、往年の旧三春藩主祈願所真照寺方丈池泉回遊式庭園の全容が姿を現しました。

その作庭に当たった磐梯造園の親方(渡部公道社長)は、「庭造りは 自然と向き合い共生するという途方もない時間の流れの中にいて、植栽一つにおいても数十年の時の経過を待つ覚悟が必要です」と語ります。
三春での我々の暮らし、歴史や城下町との関わり方等自然の原理原則に従い自然と共生しながら、人間としてどう豊かに遊び、生きてゆくかを考えさせられました。

この春先に、弟子である三春天狗谷の瞳ちゃんを伴って長野県蓼科(茅野市蓼科高原)へ出張されました。

 この出張は、奈良にある法相宗大本山薬師寺の元管主である松久保秀胤老師が住職を務める蓼科山聖光寺(トヨタ自動車が交通安全を祈願して創建)というお寺がありますが、その庭園にある約300本の桜を含む広大な庭園の管理・指導の依頼があり、その打ち合わせということでした。

なんでも、蓼科と気候が似ている磐梯町、そして近年復元された国の史跡磐梯山慧日寺跡縁になる平安時代初期の高僧徳一大師さん関連での引き合いだそうです。

私も、ご一緒したい気持ちをグッとこらえ愛蔵書である松久保老師の著書「生きる指針」を託し、図々しくもサインをお願いして蓼科へ見送りました。
 頂戴したサイン(書)には、花押入りで、「立命安心」と書かれていました。
 
”何事にも、心を安らかに、人力のすべてを尽くして身を天命にまかせて生きる。さらには、いかなるときも他のものに揺動せず、心を乱さないこと”と解しました。
正に、”生きる指針”にふさわしい言葉で、ありがたく心に刻みました。

奈良の都で法相宗を学んだ徳一大師は、当代屈指の高僧としてその名を全国に知られ、天台宗の最澄、真言宗の空海と大論争を繰り広げたことでも知られています。
徳一大師は、平安時代の初めごろ権力やお金で腐敗した都の仏教界を嫌い東国へ下り、仏道修行と民衆教化の場を求めて、岩城経由で会津に根を下ろし、大同二年(807年)に現在の磐梯町に慧日寺を開きます。

この東国下向は、磐梯山噴火をはじめ各地の天変地異で困窮する人々の救済と復興支援のために、被害の一番大きかった会津地方へ向かいました。
途中、来迎寺(小野町)、龍泉寺(田村市)、高松観音寺(本宮市)、相応寺(大玉村)などを創建し、ここ三春へも立ち寄ります。

三春城下の南西、旧沼沢村にある“子安薬師”が、徳一大師開創との縁起が伝えられており、隣接する鷹巣医王山瑠璃光院薬師寺の薬師堂も徳一大師の流れをくむ旧蹟と考えられています。

 江戸時代は、三春城下紫雲寺の末寺とされ、薬師寺のご本尊は「木造阿弥陀如来聖衆来迎像」で、平安初期の特色が表れていて量感に富んだ力強い力作です。
創建時は独尊像であったと思われますが、後にこの阿弥陀如来の周囲 に“阿弥陀二十五菩薩来迎像”と呼ばれる二十五菩薩が配置され、雲上に聖聚を従えて往生した者を迎える様を描写した荘厳な仏像彫刻です。
この様式の仏画は多数みられますが、木造は大変珍しいものです。

徳一大師が火を灯し、1200年にわたって脈々と受け継がれてきた三春の仏教文化。
 そして、今回の磐梯造園さんが三春藩主祈願所の作庭という不思議な御縁。
これも徳一大師のお導きになのでしょう。
 
 合掌   さすけねぇぞい三春!  蒼龍謹白   拝


| ryuichi | 05:03 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |