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平成版三春今昔物語 「参勤行程 江戸への往復」

三春城本丸


三春今昔物語 参勤行程 江戸への往復

昨今、映画「超高速!参勤交代」の続編「超高速!参勤交代 リターンズ」も公開され大変好評でした。

三春藩の参勤交代の旅行行程を見てみましょう。

旧藩時代の参勤による旅は、藩主以下江戸常府藩士を除くと約150名の行軍で、籠、馬の乗り物以外は、皆徒歩ということになります。

三春城下から江戸へ63里(一里=4km)の旅は、5泊6日程かかりました。

一年交代での参勤で、時節は他の譜代並みに6月と記されています。

因みに、外様大名は4月と決まっていました。


参勤交代年月(参府) 丑卯巳未酉亥6月

参勤交代年月(暇) 子寅辰午申戌6月  寛政武鑑(1789)

道中案内によると、三春城下から江戸愛宕下(西新橋愛宕)にある三春藩江戸藩邸までの工程は、城下八幡町末江戸街道を通り、奥州街道を上るルートがとられます。







並松坂~ 沼之倉~ 当蓮寺坂(鷹巣手前にあった寺、現在廃寺)~ 鷹巣~ 一里塚~ 大井戸清水~ 蓮倉~ 洗い~ 赤沼~ 守山(松平大学頭二万石城下)~須賀川~ 笠石~久来石~矢吹~不間瀬~太田川~作山~喜連川~氏家~白沢 ~宇都宮(宇都宮丸屋小平方が藩の定宿)~雀宮~石橋~小金井~ 小山~間々田~野木~古河~中田~栗橋~猿手~松戸~粕壁~越貝~佐岡~千寿(現千住)~今戸橋~浅草御門~塩留橋~本所~日本橋~京橋~尾張町~愛宕下三春藩邸。



この長い道中、名所旧跡や土地の風物に旅愁をまぎらしながら、気長に歩き続けたのでしょう。

しかし、藩の行く末を左右するような、何かの突発的な事件があり、注進(報告)が火急を要する場合は「早駕籠」が用いられました。

6人ないし8人の担ぎ手が交代で、昼夜通して走る続けたといわれます。



城下追手門


保安の不十分だった昔のことですので、道中には“追いはぎ”や“すり”、“こま”などが徘徊しが横行していて、一人旅は禁物とされていた時代でした。

尚、文化年間の初期(220年ほど前)、藩主秋田孝季の奥方になった因州鳥取藩主池田35万石の姫君が、道中揃えの行列で二カ月余もかかって三春入りしたという昔語りなどまりますが、その工程と費用が気になるところです。



城下大町桝形




三春藩秋田本家の江戸菩提寺は、浅草新鳥越町(現台東区松が谷3-3-3) 妙心寺派 大雄山海禅寺

臨済宗系単立寺院の海禅寺は、大雄山と号します。

海禅寺は、慶長8年(1603)に起立、寛永元年(1624年)神田明神北妻恋に草創、寺号は下総国相馬郡に平将門が創建したとされる同名の寺に因んで命名したといいます。

振袖火事の後、当地へ移転しました。

蜂須賀家をはじめ諸侯から厚く庇護を受け、「阿波様寺」とも称され、塔頭4ヶ寺(霊梅軒(霊梅寺)、泊船軒、寒窓軒、瑞光庵)を擁していた他、臨済宗妙心寺末の触頭を湯島麟祥院、高輪東禅寺、牛込松源寺と共に勤めていました。


尚、江戸時代、江戸の三春藩邸で亡くなった秋田氏一族は、江戸菩提寺である浅草海禅寺に葬られましたが、それらのお墓は、関東大震災後に雑司が谷霊園へ改葬され、さらに昭和10年5月26日に高乾院へ改葬されました。

そのため、藩主秋田氏一族のほとんどは、現在では三春城下高乾院に埋葬されています。




昭和20年代の広報三春内コラム参照



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:10 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記 |