2016-09-20 Tue
古蹟漫歩「馬場の天女碑」
馬場尼ケ谷の“馬場の湯”の少し下ったところに「正徳馬場口のお地蔵さん」と呼ばれる地蔵堂があります。
その入り口に天女碑と刻まれた石碑が建立されています。
台石ともに150センチほどの大きさで、正面に天女碑、向かって右に文化12年(1815年)、左に乙亥暮秋と刻まれてあります。
室町期以降の武家は、たしなみの一つとして謡曲をうたいお能を舞っていました。
三春藩でも、各藩同様にこれを奨励していました。
かつての三春藩の政務の中心である御殿には能舞台があったと記録されています。
尼ケ谷には、大木、坂本、池田などの武家屋敷があり、その人たちも能や謡に励んでいました。
天保の初期、三春11代藩主秋田肥季(あきたひろすい)の室(奥方)は、因州(鳥取)鳥羽城主池田斎訓(35万石)の養女でした。
御輿入りの際に清涼院という老女が守役として付いてきましたが、江戸末期ごろに
この老女に池田姓を名乗らせ、当時の大木家の二男新一を池田家へ養子に迎えさせます。
清涼院は、この新一を江戸宝生流家元の内弟子に入れて、10年間研学させました。
帰郷後は、藩の指南役として仕えました。
この池田家が尼ケ谷に屋敷を構えたのも大木家との縁故関係です。
その縁も、「能、謡」につながるものでした。
さて、天女碑ですが、能、謡に熱意を込めた大木、坂本などの藩士をはじめ芸能ごとの上達を願う人々によって記念碑として建てられてものです。
天女は「羽衣」からの着想であることは言うまでもありません。
はじめは、路傍に建てられていましたが、道路改修の際に、仏教関連と勘違いした廃仏毀釈を引きずった無知な
人夫達によって、坂本氏宅の池にお地蔵さんと一緒に放棄されていました。
見かねた、鴫原留吉氏、石橋政蔵氏ら当時も馬場尼ケ谷の有志が私財を出し合って、地蔵堂を新築してお地蔵さんを納め、天女の石碑はそのお堂前に据えたものです。
江戸末期幕末の動乱を経て、お地蔵さんと問いもに天女の石碑も時代の流れを見てきました。
古い三春広報コラム古蹟漫歩「馬場の天女碑」参照
「日本語をみがく教範として、武士階級は謡曲を習い、町人階級は浄瑠璃を習い続けた」
「この国のかたち」司馬遼太郎著より抜粋
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