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平成版三春古蹟漫歩「三春城主田村家菩提寺 福聚寺」




三春城主田村家菩提寺 福聚寺

田村三代というのは、坂上田村麻呂末裔25代子孫盛顕の子で、戦国時代の三春城主田村義顕(たむらよしあき)、隆顕(たかあき)、そして、伊達政宗正室愛姫の実父である清顕(きよあき)の三代を指します。

三春初代の義顕が守山(現郡山市田村町守山)から、三春に城を築いて500有余年になります。

義顕は病弱だったと伝えられ、早くから嫡子隆顕に家督を譲り、弟の頼顕月斎に後見させていました。

また、自らを、“卜西”と号していました。






三春城下に、以前の本拠地である守山と同じく山中という地名を作り「大元帥明王」を祀った田村大元帥明王堂を建立します。

また、赤沼(現郡山市中田町赤沼)の丈六佛を城下丈六に、そして、八丁目(現郡山市西田町八丁目)の福聚寺を城下後免町に移すなどして、中世三春の城下町を整備していきます。

田村領内の整備についても、次子憲顕(のりあき)を船引城に入れ、三子顕基(あきもと)を仁井田(今の小野新町)城に入れて、権勢をふるいました。

二代である隆顕は、一族重臣を田村領内の防御の要衝である48箇所に館(出城)に配置して、防備を固めました。
これが後に云う「田村四十八舘」です。

田村家も戦国の習いの通り、領内を固めると共に、外敵に対して出撃しては、果敢な攻勢をしかけます。
安積、岩瀬を傘下に収めていましたが、南進を画策する伊達の伊達氏と衝突します。





天文6年には、外領の大半を失ってしまいます。

相馬顕胤(あきたね)の仲介で、一時は和を保ちますが、離反を続け、そのた会津蘆名氏、石川の石川氏、須賀川の二階堂氏、岩城氏、常陸佐竹氏、白河氏などと和戦常無く、或る時は越後上杉氏、甲斐武田、武蔵北条など、越後から関東の雄将とも交渉があり、戦国乱世に田村の名を馳せました。

しかし、世は戦国。
田村氏の四面楚歌の状況は変わりません。

清顕は、相馬高胤(たかたね)の娘を室として迎えます。
政略としての婚儀の意味合いもありますが、古道、岩井澤、葛尾、南津島はその時の化粧料として田村氏の領土として授けられたとされています。

また、一人娘の愛姫を伊達政宗に嫁がせて、守備を固めます。
この婚儀政略によって、二階堂氏に御代田、今泉、白岩などの諸城を攻められ、実に危機一髪の場合にも伊達氏の後援があって殲滅の難を逃れることが出来ました。






その後、秀吉の天下統一、奥州仕置、田村仕置などを経て、三春田村氏は滅亡しますが、実家の悲運を憂いた、伊達政宗正室愛姫により、孫の宗良に岩田3万石を与えて田村氏を再興、後に一関に移り明治維新を迎えます。

三春の田村三代の墓は、福聚寺にあり、右から義顕、隆顕、清顕と順に並んで墓石が立ちならんでいます。






古い三春広報内コラム古蹟漫歩参照


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍



| ryuichi | 05:07 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏 |