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塵壺303号 「明王さまの仁王像二尊」田村大元神社仁王門
 


 「明王さまの仁王像二尊」田村大元神社仁王門

 今でも、「明王さま」(訛ってミオさま)と呼ばれる、三春城下山中にある田村大元神社。

 江戸期、秋田藩政下では大元帥明王社・三春藩領内総鎮守として三春五万石の領民の崇敬を受けてきました。
しかし、神仏混淆(しんぶつこんこう)の大元帥明王は、明治維新後の神仏分離、廃仏毀釈の影響により、明治二年に本殿、拝殿ともに取り壊され、仁王門と仁王像の二尊も、廃棄の憂き目にあいます。

 仁王門は竣工間もない新築なので、そのまま「随身門」として残され、仁王様の二尊は、元々明王社を管理していた別当の三春藩主祈願所真照寺に拾われて、軒下に仮の宿を求めていました。

 時は下って太平洋戦争後には、信仰の自由解放となって“神仏混淆の禁”も解けたこともあり、三春城下の新町の氏子信徒の熱望と、文化財保護の施策とが実を結んで、久しい間“真照寺の仁王さま”と呼ばれていたこの仁王像の田村大元神社随身門(仁王門)への帰還の運びとなりました。

 さて、この仁王さまですが、大元明王社は、江戸中期の寛文10年7月晦日に火災に見舞われ炎上消失してしまいます。
 
後に、本殿・拝殿は再建され、仁王門は、幕末の慶応元年の竣工で、その時に御本尊大元帥明王の守り佛としてこの門に安置されました。

 尚、現在の社殿は田村大元神社として明治32年に再建されたものです。



仁王像の作者は、伊東光運と伝えられていますが、一説には芹ケ沢の西尾官吉だともいわれます。
 光運の監督下で、官吉が彫ったのかもしれません。

光運は、石森の人で久我之助観吾と称し、父は観正院の法印でした。

木工に秀で、三春大神宮の神馬や、大元神社神門梁彫刻等の作品も残っています。

 下絵は、三春城下の絵師中村寛亭だとも伝えられているこの仁王さまは、東大寺の仁王様に象徴されるような“筋肉隆々、胸を反らして威を張るような姿”ではなく、全体的にふくよかで、少し前かがみの姿勢は、どこか愛くるしいお姿をされていますが、参道を上がってきた参拝者に「悪いことはしてはいねがー!」と優しく諭しているようにも見えます。
 これは、本姓を安倍安東とする秋田氏の本拠地が青森五所川原や秋田の沿岸部となれば、「佞武多祭り」「ねぶた祭り」そして「なまはげ」を連想させるものであります。




 仁王二尊は、金剛力士とも云い、仏法の守護神とされています。

 左には金剛、右には那羅延金剛で、ともに裸体で腰に布をまとい勇猛な相をしており、左は口を開き、右は閉じていて、「阿(あ)」「吽(うん)」の対をなしています。





 この「阿」「吽」とは、仏教の輪廻的な意味では、人は生まれたときに“あ”と口を開いて生まれるといいます。
 また、亡くなるときには“うん”と満足して逝くといわれています。





 即ち、生きるということは全て修行であり、一生懸命生きなさいという“命の大切さ”を説いているとされています。

 先に記したように、この仁王さまが、時代の流れの中で明治21年から戦後までの間、およそ80年に亘って真照寺の軒下で風雨にさらされていました。
 かつては鮮やかであったであろう丹青の色も消え、半ば朽ちた巨体を再び本来おわすべき随身門(仁王門)に戻って鎮座されました。




 平成になって、城下馬場の影山組・やわらぎの湯社長の影山勝男様からの篤志寄進と三春町からの補助により、仁王像二尊の修復がなされ往年の姿に戻っています。

   さすけねぇぞい三春!  蒼龍謹白   拝


| ryuichi | 04:55 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |