2017-01-09 Mon
天沢寺炎上
三春城下清水にある天沢寺は、江戸初期の三春城主松下石見守長綱の時代には恵下谷(現三春城下南町の会下谷)にありました。
或る時、松下家の行く末を案じた忠臣が、殿様の常軌を逸脱した日頃の言動を諫めようとして進言します。
しかし、松下石見守は、家来の無礼を憤り、之れを手打にしようとして刀を抜きはらいます。
其臣は、周囲の者に引き立てられ、慌てて逃れ、菩提寺である天沢寺に匿れ、時の和尚は、これを庇護します。
和尚に、引き渡しを下命しますが、これを拒否し、石見守の態度を戒め、政務を批判します。
石見守、益々怒って手勢を率いて天澤寺の伽藍を焼払ってしまいます。
この暴挙に対し、曹洞宗本山総持寺や永平寺ともつながりの強い和尙は、“城主狂乱”と公儀幕府に訴えでます。
早速公儀取り調べがあり、その他暴政も含めて乱心の廉で松下家の御家継断絶となります。
現在の天沢寺は、慶安年間に三春城下清水の創建されます。
かつてこの天澤寺があった場所の南の高台に、葛尾村住宅「恵下越団地」が整備されています。国道288号バイパスにも看板が立っていますが、恵下越?と三春の方でも初めて目にする地名ではないかと思います。
この恵下越の地名は、上記の天澤寺に由来します。
”恵下(えげ)”とは高名なお坊さんに教えを乞うために会(参禅)するという意味。
訂正
影山常次著「田村小史」参照としていましたが誤りでした。
記憶違いの中ですが、口伝もあります。
しかし、その出典は相馬家の文書か土佐山内家の文書を引用して江戸期に書かれた「大名廃絶録」類の書物からと思われます。
現在その書物(書類)を探索中です。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
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