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塵壺304号「三春城主松下家改易・城引き渡し騒動」



「三春城主松下家改易・城引き渡し騒動」

江戸初期三春藩を治めた松下長綱(ながつな)は、いわゆる豊臣恩顧の大名で、徳川幕藩体制の施策によって、寛永4年(1627)、下野国烏山藩(栃木)から二本松に移され、翌年正月には、石高を3万石に減らされて三春城に入ります。

松下氏は、三春入城後、先の城主田村家の伊達家へ吸収合併以降、久しく荒れていた三春城の城郭や石垣を補修し、城下全体を城郭とする中世城郭都市として、城下町を整備改修して“東北の鎌倉”と呼ばれる現在の三春城下の基礎を作ります。

一方、長綱は、剛腕の反面、短気な人だったと様々な逸話が残っています。
また、城郭や都市の備など在任15年という短期間に、巨大な公共工事をやってのける剛さに無理は伴うのは今も昔も変わりはなく、領民を虐使し“苛剣誅求(かれんちゅうきゅう)”の政治となるのは当然と言えます。



三春城下新町松下家菩提寺州伝寺


そのために領民は、困窮に泣きその暴政と領民の窮状を幕府に訴えるに及びます。
以前より長綱暴政の噂は幕府も把握していましたので、寛永20年、狂疾(気が狂った)、そして切支丹(キリシタン)の嫌疑として、三春藩御取り潰し松下家改易の上城地召し上げの沙汰を下します。
即刻、長綱はわずかな供を連れて正室実家である土佐高知藩主山内忠義(ただよし)に預けられる事になります。

この改易後の三春城の引き渡しには大変な騒動が起こったと「会津藩家世実紀」に記されています。
事の発端は、「三春城地受け取りの節に、警護として近隣諸藩に出動を命じた」という幕府の沙汰が三春城下で謹慎している松下家中の耳に入ったことに始まったとされています。

当時、幕命を奉じた松下家中では三春城を明け渡し、城地及び三春領三万石は召し上げられ幕府代官樋口又兵衛、福村長右衛門の管理支配となり、三春城は隣接する相馬藩相馬義胤が警備にあたっていました。

この時、三春城請取の役を命ぜられたのは寺社奉行上野高崎藩主安藤重長(後の三春二代藩主秋田盛季正室実父)で、下命から将軍家光に受け取り報告までの
およそ一ヵ月の間、三春城下松下家中では非常に険悪な空気が漂っていたと伝わって来ます。

それは、松下家中が、恭順し城明け渡しの準備をしているのに、「抵抗の恐れあり」と近隣諸藩に警護の沙汰を発せられたことを遺憾として、この上は城を奪還・籠城しその心情を訴えて、聞き入れなければ、“城を枕に討ち死に”と決議し、城中に立て籠る準備をしているというものでした。

これを聞き及んだ、長綱の身元引受の土佐山内家は、家老相良某を三春の松下家へ走らせて、「万端首尾よく引渡しますよう」にと説諭させています。




一方幕府は、改めて重長の外に、三春城在番に棚倉城主内藤信照を、目付に使番能勢頼重、永井直元らを任命し、近隣の大名にも出動加勢を命じたとあります。
さらに、会津城主保科正之も城受け取り警護のため江戸を立ち、途中栗橋宿から家臣井深某、馬淵某らを説得のため三春城下に派遣します。
また、磐城平藩内藤家などは、幼君忠興を擁して三百騎を緊急出動させたところもありました。幕閣では、老中白河城主松平式部大輔のほか、老中井伊掃部頭なども参集し、対応を協議します。

しかし、松下家中の抵抗はなく、騒動が収まり無事引き渡しが済んで、翌年には秋田俊季に三春国替えが認可され、三年後の正保五年(1645)八月に、三春五万石城主として三春城に入ります。

  蒼龍謹白   さすけねぞい三春!   拝


| ryuichi | 05:27 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |