CALENDAR
S M T W T F S
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
<<  2019 - 08  >>
CATEGORIES
ARCHIVES
PROFILE
    k1
OTHERS




耳鳴りの彼方へ 8
「平成18年度消防防災科学に関する論文」を受けて

「耳鳴りの彼方に・・・」
“町火消し”その視点と正義について

はじめに
団員の安全確保と云う観点から、様々な災害現場出場に際して、我が三春町消防団では、外皮(防火服)、防火ヘルメット、安全長靴、そしてグローブの完全装着と基礎訓練を実施して安全自己管理の徹底を義務付して安全には細心の注意を払うように示唆し、非常心理が発生する災害現場での様々な状況下で起こりうる事故の危険から、部下である団員の身を守ろうとしています。
しかし、新聞・テレビ等の報道で、簡易ヘルメットと法被という無防備な装備で、火災現場を含む様々な災害現場で献身的に活動する消防団員の姿を、目の当たりにして、私も消防団の指揮官である大隊長としての職責を踏まえた中で、有事災害現場での指揮官としての安全管理とその確保について改めて考えさせられます。
本書は、日常的な消防団業務遂行の上で、全国自治体消防団に対して安全管理の重要性の再認識と、現在そして将来的に抱える不合理さゆえの諸問題に対する単純な改善改革案の認識確認と、その諸問題が自然発生的に生じた自治体消防発足以来の、この組織に慢延し受け継がれた現組織体制への再確認と方向修正、そして価値観をも含めた新しい基本理念及び道徳的概念の、模索とその確立を、“町火消しの頭“として誇りと自負を持ち、実戦実動部隊の大隊長として、そして三春分団全員の共通認識の確認として、ここに謹んで提唱するものです。

序文にかえて
先に公表された「新時代に即した消防団の在り方に関する検討委員会」中間報告を踏まえた上で、この種の言わば日本国憲法の根源ともいうべき、国民主権と自由主義とともにこれを創造し構築するような人格の概念にも批判と是正を求めたいと考えます。
自治体消防団は、昭和22年の制度発足以来、地域防災の要として地域住民の生命財産を守る上で重要な役割を果たしてきました。近年は、広域消防組合の充実により消防の常備化が進み多くの地域で消防団の役割も変化し、火災等への対応の面では常備消防が中心的役割を果たしている地域が増加しています。
また、消防団を取り巻く社会環境も著しく変化し、過疎化の進行、就業構造の変化、住民意識の変容に伴い団員数の減少、そしてサラリーマン消防団員の増加が加速して、消防団活動のあり方そのものの見直しを迫られているのが現状であります。
このように、消防団を取り巻く環境は大きく変化している一方で、近年の地震や土砂災害などの自然災害に対して、消防団は重要な役割を果たしているほか、平時でも防火啓蒙や指導等の面でもその重要性が見直されています。
「阪神淡路大震災」以降、地域消防体制の整備が積極的に進められている状況下の中で、消防団が果たしていく役割等について、消防団員と行政それぞれ意思の疎通を図り、長中期と短期のそれぞれビジョンの策定に向けて積極的に検討することが必要となってきています。また、総務省消防庁消防課で取りまとめを行った「新時代に即した消防団のあり方に関する検討委員会」などで、時代に即した消防団のシステム創りを模索しています。
上記の事柄を踏まえた上で、我が三春町消防団に目を向けますと、三春町が提唱する「都市計画」「自治基本条例」「消防に関する各種条例」及び「三春町防災計画」の下に、行政改革と実質的な消防力維持強化の狭間に揺れながら消防団活動を実践していることは承知のとおりです。そして、この案件に対する認識の捉え方は消防団の今後について、考える者(組織)と考えない者(組織)、そして行動する者と、行動しない者を自然に選り分けることになったと考えます。そして、各分団ともに十年後いや五年後、もしかしたら三年後の消防団を予想出来ないのが現状なのではないでしょうか。そのためにも現状の消防団に甘んずることなく、近い将来を視野に入れ、消防団としての「ビジョン策定」に向けて、危機意識をもって議論を重ねて行かなければならないと思います。

消防団の主体と現状、そして、その進むべき方向性について
自治体消防団組織の主体は、ヒューマンウエアーと言う観点からすると、視点の取り方や言語のさまざまな「技法」プロセスによって規定された、ある意味においては架空のものであり、現実的に実像として存在しているものではありません。また、それ自体が各々の意味の上において、消防団が普遍性に対して開かれている根拠な訳ですが、それが誰で在れ、その他一切の区別に関係なく消防団というフィールドにおいて、消防団独自の規則と技法が存在・尊守されている限り、消防団の主体の価値を採ることも可能です。つまり、消防団の機能的共同体というものがあるにしても、それはあくまでもその主体的な機能的共同体であって、決して現実に存在する者の共同体ではありません。
ところが、地域の消防団においては、実戦部隊の実動隊組織という体質上、この機能的共同体は、消防団のフィールド上にあって種を異なる共同体が存在する、さまざまなエーストや伝統、ビジョンによって規定された存在する者の運命をも共にする、言うなれば運命共同体にほかなりません。
消防団の進むべき方向性の先には、自分たちの住む地域を各種災害から守り抜く、という正義感と責任感が確実に存在し、その非日常ともいえる消防団員としての社会的現実と、実社会に於いて職業を持ち家庭を持っているという個性的現実、この相克の狭間において、曖昧な現況の地位・立場にある、唯一、責任感、義務感と正義感、そして、「男気」をもって日夜、その業務に対応しているのが現状ではないでしょうか。

消防団を取り巻く社会的環境の変化とその対応について
グローバリゼーションと呼ばれる地球規模での経済・文化平準化の現象が進む中、消防団員の取り巻く環境も例外ではありません。平成不況と呼ばれる中で、日経平均株価が一万円代中頃を推移し、事態は回復の兆しを呈しているといえますが、社会の雇用情勢が不安定視される昨今、サラリーマン化が進む消防団員の日常である社会、勤務先である会社もその影響を少なからず受けています。時代の推移に伴い、業務以外の所属組織に対して大変シビアになってきていることは、当然承知だと仮定して話を続けます。
団員のサラリーマン化が進む中、実際の状況として会社を営む経営者の視点から見れば、消防と言う名目で勤務中に出動されたり、休まれたのでは、業務が停止するばかりではなく、会社としての対外的な信用の欠如ともなりかねません。極論からいうと、「仕事と消防どちらが大事なのだ」ということは、日常的に交わされるのではないだろうか。そして、どちらかのウェイトが社会的な意味に於いて、変革し、実社会人として、基本である仕事・職業が社会環境の変化に伴い、不安定な組織の構成要員を排除しつつある傾向にあるのは、紛れもない現実であります。また、従来の自営業者に於いても、消防だからと理由で、その生業である仕事を放り出していたのでは、直接的に収入減を生じ、これもまた対外的な信用が欠落し仕事である生業そのものの消滅にも発展しかねない。それでも大多数の消防団員は、義務感、正義感の中で、曖昧な立場のままに災害があると果敢に出動し、任務を遂行しています。

消防団に於ける組織の組織的共同体化とその危険性について
本来、消防団と言う組織は機能体として発足した組織であるが、ひとつのエリアに存在する不可思議なこの組織は、機能体を超越した共同体、言い換えれば、機能優先運命共同体組織ということが言えるかと思います。
一般的な見解を消防団に定義した場合、消防団はその基本的な価値や中心となる構成部分を、外部環境からの恣意的な介入による干渉から護ろうとする作用が働いている組織の核となる部分を可能な限り外部環境によって左右されないように保護し、隔離しようとするのである。
外的変化によって組織の核が直接的に影響を受ける事は、組織としての現在の主体性を危うくするものであり、組織存続意義や全体としての組織生存を脅かす事につながるからです。
組織的共同体というのは、もちろん「ともに生きる」共同体です。そこには、共同の記憶があり、経験の蓄積があり、それに伴うさまざまな感情が存在し、そうした思いの数々をその共同体への帰属の意識が支えています。そこで働いているのは、基本的には、「同一化」の機能です。
一度共同体が危機に陥るなら、そこでは容易にすべての団員が自己同一化するような叙述的「人間形成」が出現し、それを核にして強度の感情である熱狂が組織化されます。
組織的共同体は、同一化を可能にする「ともに生きる」感情によって支えられ、地域の中で消防団はそこに根付いています。それは決してそれ自体がとがめられるような事では在りません。むしろ我々の共同体が本質的にそのような傾向をもち、しかし、危機的な状況には、その危機を口実にして、消防団はその感情的傾向の中で盲目的な「熱狂」に組織することがあることに注意しておくべきであるのです。しかし、何が、誰がそうした注意を払うのか。それは、「良識」でありそして消防団自身が主体とする消防団イズムの役割がそこに存在します。
しかしその共同体に在りながら消防団の幹部として、共同体の「熱狂」のなかで「しかし、これは公平だろうか?」と問い、そして共同体の彼方に在る、或いは、未来に在る、その共同体には属さない他者がいる事を忘れずに、倫理的・道徳的に対地域住民への責任、対自分自身の責任の名に於いて、冷静に消防組織の行く末を見極める孤独の必要性を認識しなくてはなりません。

全国にある消防団の幹部意識レベルの確認について
福島県の消防団は、新潟・長野・山形・兵庫の次に団員の数が多い地域で、約3万8千人という人員を要しています。また、私の所属する三春町消防団は七分団構成、定数500名で編成され、平均年齢からすると、約29.5歳となり、全国的に見て平均年齢が一番若い消防団といえます。
三春町消防団の中でも、中心基幹分団である三春分団は、「三春、町火消しの直系」として、その質そして意識ともに全国トップレベルの体制を誇っており、7部体制、総定数110名をもって消防業務を遂行しています
歴史上に三春の名前が、阿武隈山系の小さな山間の谷間に登場する鎌倉時代から受け継がれてきたこの「町火消し魂」は、数え切れえない大火経験(多数の住宅類焼)の有無により、“恐怖にも似た危機感”から、歴史的背景をバックに三春町民と三春分団に於ける消防に対する共通認識として受け継がれ脈々と育み根付いてきたものに他なりません。
その歴史と伝統のある三春分団幹部として日々の業務遂行の中で、気付いたことがあります。部長・班長といえども個々に格差はありますが、現場での指揮・命令指令は、経験や危機意識だけでは的確に出せないことを実感として感じました。一連の規律訓練は、それを補う指揮官の為の訓練だという事です。これは個人の性格と行ってしまえば済みますが、消防は機能体組織です。指揮・司令に関しては個が介在しては成り立たない分野と考えますが、現実は個が勝っています。昨今、消防団の資質低下が取り沙汰されますが、正しく規律訓練の本筋を見失った結果だと感じえます。その上で、最近感じるのは、果たして団員は簡素化的改革を望んでいるか?という疑念です。これは、ただ単に楽をしようと言う風潮があるのは否めませんが、安易な変革は、消防団全体の、堕落の元という事です。指示待ち指揮官が普遍化し、以前の指揮官とは、異次元の部長達が消防団にも存在する現実は見逃せません。
定期のポンプ整備・中継訓練等の通常訓練や災害現場での各部幹部の言動を見極めで具体的な行動を指導しようと考えます。私としては実践訓練強化の為に、過剰な儀礼を緩和したいだけで、組織の短絡的・楽観的簡素化とは一線を画したいと考えます。
団員が百人いれば、百の考え方があります・それを纏めるには、考え方の違い・目的意識の相違をそのままにして、唯当面の目標・いわば手法的目標(火災・水害など緊急事態に対応すべきポンプ整備)の共通性だけで消防団全員を一体化していくと言う手法を採択し、各指揮官の人格的資質強化及び向上の教育的指導やポンプ整備の充実などで、消防団活動を媒体そして活用した全団員の人格形成に寄与し、既に役職は個人の人格からはなれるべきで、今「何をすべきか?」ではなく、「何がしたいか?」という事を指導的教育の前提として注入していこうと考えます。

消防団組織の意思統一について
消防団の各分団レベル意識格差の問題点は、大きく別けて三つ在ります。
第一の問題点は、よく言われる「情報の軽視」ということです。それは、単に情報を軽視したのみとは言い切れない問題を含んでいます。むしろ、情報の処理の仕方に問題があると思います。消防団としては様々な情報を摂取してはいますが、それが組織である消防団各分団の中を流通していかないということです。組織を人間の肉体と例えると、情報は血液のようなもので、この血液が円滑に流れない組織は、いつしか硬直化して、やがて腐敗していきます。近年頻発する公官庁・企業の不祥事に於いても、「部門間の風通しの悪さの為に、情報が一部に留まってしまった」とか「トップは何も知らなかった」という発言が繰り返されています。この点でも、消防団を含む、日本型組織といわれるものは、はなはだ閉鎖的で臆病な側面をもっており、公の場での議論することが少なく、どこかわからないところで、一握りの人間により、その組織の意思決定が行われている。また、会議の中で話される建前と、会議以外の場で話される本音が、正反対ということもママ在る事といえます。当事者は判っていても、その情報が他に明かされない。その結果として曖昧な危機感ないしは根拠の無い楽観だけが助長され、誤った意思決定が続く事になる。そういう愚を避ける為には、雰囲気に流されずに、事実を事実として見つめる態度が、様々な行動の前提と為らなければ為らないのではないかと考えます。
第二の問題点は、「身内の利害を優先する姿勢」であります。
消防団の実質的な団員の減少を前提として、各分団間の連携が重要視されている現在に於いて、出身分団の低レベルな慣習・権利だけを主張している場合ではないと言う事です。災害出動しなくても検閲等団行事を主体としていれば大丈夫というような悪習慣でも、消防団として悪い事をしているという意識は毛頭ない分団幹部が存在する事は確かです。身内意識の中に埋没していくと、目の前しか見えなくなり、自分の分団だけよければ、他はどうなろうとかまわないと言う態度につながっていきます。そうした行為の温情は、大極的に見れば、結局は非情につながり、誤った情報の連鎖が、結果的には消防団全体の首をしめる結果となり、自分と部下に跳ね返ってくることになるかと考えます。これは、農耕民族である日本の組織に特有の、いわゆる「ムラ社会」体質(我田引水)の欠陥を鋭く衝いている事柄でしょう。
第三の問題点は、「リーダーシップの不在」です。
前記の中に在るように、分団及び分団幹部の中には、決定的な局面で、最高指揮官が不在(実際の不在ではなく人格的資質の不在と言う意)であり、なおかつ、組織的にも責任の所在が曖昧で、分団内の各部隊が勝手な思惑で行動し、指揮官がそれを統率できないという日本型組織にありがちな欠陥の露呈です。
あえて言うならば、マネージメントは在っても、リーダーシップが無い事に起因するのではないだろうか。どんなにマネージメントが優れていても、リーダーシップが不在であれば、結局は失敗する。これらの意味に於いて、消防団には、目の前に迫った既成の行事などを処理する能力には長けている人は多いが、全体としてどの方向に向かって行動し、何を行なうべきかを統一的に指示する存在を欠いているのではないだろうか。或いは、消防団の段階的経営者としてその立場にある者が、人格的資質の欠如に於いて的確なリーダーシップを発揮できなかったと言えるのではないだろうか。

消防団の組織としての自己批判とその責任について
消防団における価値観をも含めた主体は、その地域性とポジション、そしてスタイルによって決まるものであって、感情という存在の厚みを持っていません。それだからこそ、逆に超越的な視点が持てる訳ですが、消防団の言説を行う現実的な個人は、それぞれの思とともに運命共同体的意味合いの消防団の中に存在し、なおかつ、個人のさまざまな事情と感情を持っています。
そうした存在の拘束を消防団、いや消防団の言説が完全に淘汰することが理系の言説ならば、ともかく文系・個人が人間文化の担い手である限り、現状況の価値観をも含めた秩序の中では、とても困難なように思えます。
消防団が行う消防団に対する政治的な行為の最も基本的なものは、実情を把握した上での批判に他ならない訳です。しかし、批判が正に対立の構図の上に成立するものである以上、そこには常に感情的な攻撃性が忍び込む可能性があります。消防団員という社会的現実と一般社会・家庭における個人という個性的現実。この不条理ともいえる狭間にある消防団員は、現実が確実に発生している現状を踏まえて、批判というのが自然発生的に生まれてくると思います。   
実際、現実に行われている批判の多くは、理論的であるよりはるかに感情的なものであることが多い。論点の相違が、いつのまにか、相手そのものの全面否定となったり、一見論理的なようでありながら、結局は、自らの恨み事に依拠するものであったりする言説が横行していますし、それを正式な形として書面をもっての批判的行為が余り見当たらない。そこには、男としての美学「男気」とやらが存在し、お付き合い(馴れ合い)意識も手伝って、運命共同体の「一番の欠点」が発生してきました。しかし、現消防団が抱える、さらには、抱えるであろう問題のひとつとして「団員減少」が浮き彫りになりつつある現状を考えると、「男気」だけでは乗り切れるものでもなく、まして、団員を取り巻くハード的状況や、ソフト的状況を配慮した場合、どうしても批判を唯批判としてだけではなく、ひとつの社会的問題と定義して、その提示をも含めた批判行為をしていかなければならないのではないか。
機能的組織の本質として、火災・災害出動に対して「命をかけろ」という考え方では、消防活動は成立しません。恐らく消防団員の誰一人としてもついては来ないでしょう。それは団員にもそれぞれ家族がいるわけですから、「ここで死んでくれ」と言われたところで死ぬわけには行きませんし、「火傷や怪我をするかもしれない」と言われても現場には行けません。
消防団員万全だから出動する。無事帰還出きる技術と経験が在るから出動する。逆に言えば怪我等の事故が起こるのは万全な態勢や、曖昧な考え方で出動していないといえる。その「万全な態勢の創造」の延長線上に三春町消防団が実践する一連の合同訓練があり、その本質を確立できると考えます。

消防操法競技大会について
自治体消防団発足時は、有効的な団員技能向上の手段であったが、いつのまにか、行政の後押しの中で、競技会種目として意味合いの的位置付けが普遍化することによって様々な諸問題が発生しています。
訓練方法として早朝4時から一年間も練習したとか、毎晩遅くまで何ヶ月もとか、これでは普通に社会で仕事を持つ健全な若者が聞いたら、もうそれだけで消防団に対し拒否反応を示すのは当然の解釈だと思うし、先に言及に及んだが実社会では、受け入れられない。これこそが、現在日本全国にある消防団が抱える最大の問題である、「団員減少問題」の一番の原因と考えられる。
そして、消防団として今後の消防団活動の中でこの消防操法の位置づけを今一度見直す時期に来ているのではなかと考えます。
冒頭でも記載しましたが、火災等への対応の面では常備消防が中心的役割を果たしている地域が増加しているという事実、そして、消防団を取り巻く社会環境も著しい変化し、過疎化の進行、就業構造の変化、住民意識の変容に伴い団員数の減少、そしてサラリーマン消防団員の増加が加速して、消防団活動のあり方そのものの見直しを迫られているのが現状であります。
その原因の一つに消防操法が挙げられているのは現実の問題として上がっています。近隣市町の過剰なほどの訓練を見聞するに、この「お祭り騒ぎ」の影で消防団本来の業務を、広域消防組合の常備消防任せ(頼りにと言い換えたほうが適当かもしれません)、その業務を疎かにしていることに気付いている消防団幹部が何人居るでしょうか。
常備消防においても、東京消防庁は、全国常備消防に先立ち、全国消防救助技術大会などの見世物的な大会出場を取りやめに踏み切り、披露目的ではない実質的な消防救助技術訓練様式を採用したと聞き及んでいますが、今後、この訓練様式は全国の常備消防にも波及することでしょう。
しかし、消防団が旧態然として現状の消防操法訓練様式を採用し続けるということは、有事対応の放棄につながり日本消防協会の意図する現場対応能力の高い消防団の構築からかけ離れた消防団しか存在するという危惧が私の脳裏からは払拭されません。
これは、何も消防操法の全てを否定しているのではないことをご理解いただきたいと思いますが、近年の消防操法における分署員の指導方法の充実(安全管理を念頭に各項目の意味までも教授)や、その延長線上にある「水出し消防操法」への移行など、消防団員としての有事対応の基礎的役割は今後の消防団業務の技量向上の為には欠かすことの出来ない訓練様式です。また、規律の面においても消防団の基本中の基本となる訓練様式ですので、この部分を疎かにすることはできませんが、大会を前提とした過剰な訓練日程による「お祭り気分の末の本末転倒的な位置づけの認識」に危惧しているだけであります。
この事柄は、三春分団長として再三苦言を呈している、厳冬期の県消防学校入校の時期及び内容と同様の事柄と考えます。

自己革新組織としての原則理論について
機能的共同体・消防組織が継続的に環境に適応していく為には、その組織内における一幹部の個人的感情、利権は黙殺し、あくまで、その組織・機能態的共同体に主眼を置き、組織は主体的にその戦略/組織を環境・時代の変化に適合するように変化させなければならない、つまり主体的に進化する能力の在る組織が、自己革新組織である。
最近の進化論の有力な考え方のひとつは、進化の普遍的な原則を、この自己革新組織という考え方に求めている、組織は、そういう行為・行動を通じて日々進化を遂げていく、組織内における社会的現実と個人という個性的現実の相克の不条理が存在する消防・消防団組織もこの例外ではないのである。
全ての消防団員が持つ、口には建前上言えないポンプ操法批判などは、先の大戦中に行われた神風特別攻撃隊の根底にあるものと「似て非なるもの的感覚」が見受けられます。人間が、共同体の構成員である事を最大かつ最終的に確認できるのは「共同の死」を意識した時であると言われます。この瞬間にこそ、全ての機能は失われ、人間はただ共同体の構成員と言うだけの存在になる。
太平洋戦争でアメリカ軍と戦ってみて、言い訳もつけないような機能上の弱体を思い知らされた旧日本陸海軍は最後に、この共同体意識のみに没頭し、共同の破壊を求め、これを拒むことを許さなくなってしまった。
日本海軍における、敷島隊・大和隊にはじまる神風特別攻撃隊、これを国民性という観点から見るならば、特攻作戦を可能にした精神的背景には稲作民族の体質から生まれた歴史的大家族主義に伴う強い愛国心、美化された武士道の影響、昭和初期の「神祇院」による国民思想統制の上に成り立つ「戦陣訓」に表徴される戦前教育。また、特攻隊への志願者には他人の評価を過度に意識する世間体という拒否・選択を許さぬ「ムラ」社会の恥意識などが加わっていたのではないだろうか。最後まで特攻を拒み、通常攻撃に徹した海軍131航空隊美濃部正中佐や、インパール戦で独自の判断で撤退した陸軍第二十八軍桜井中将など例外はあるが、この種の「死を恐れぬ精神」を勇気と言う人も居るだろうが、事実は共同体的拘束から抜け出せなかっただけなのです。このために日本陸海軍は「死に急ぎ」となり、反省すべき事を反省せず、一部の人間の保身のために冷静な作戦思考さえ失った戦争指導者の指示により、多くの将兵が戦死・餓死・戦病死したのが、このような状況下で発生したのだからなんとも切なく、割り切れない思いがします。
適応力のある組織は、環境を利用して絶えず組織内に異変、緊張、危機感を発生させている、或いはこの原則を、組織は進化する為には、それ自体を不均衡状態にしておかなければならない、といってもよいであろう。
不均衡は、組織が環境との間の情報やエネルギーの交換プロセスのパイプをつなげておく、すなわち開放体制にしておく為の必要条件である。完全な均衡状態にあるということは、適応の最終状態であって組織の滅亡を意味する、逆説的ではあるが、{適応は適応能力を締め出す}のである。もちろん、ある時点での、組織の全ての構成要素が環境に適合する事は望ましい。
しかし、環境が変化した場合には、諸要素間の均衡関係を突き崩して組織的な不均衡状態を作り出さなければならなくなる。 
均衡状態から外れた組織では、組織の構成要素間の相互作用が活発になり、多様性が創造されていけば、組織内に時間/空間的に均衡状態に対する確認機能や破壊・疑問が自然発生的に起こり進化の環境適合性がはじまるのである。

個々の資質を含めた消防団の高度成長について
消防団は、組織として、他の組織(全国的視野を持って)と比較して組織内外に絶えず緊張が発生し、不安定な組織であると考えるかもしれないが、それは、平時だけのことで、非常時には企業組織が常時市場とつながりを持ち、そこでの競争に晒され、結果のフィードバックを頻繁に受けるという開放体制の組織利点作用が働き、個々が切磋琢磨し、問題意識が個々の中に芽生え、その問題に対して各々が、奮起・努力するものと考える様に、消防組織は、平時にいかに組織内に緊張を創造し、多様性を保持して高度にして不確実な非常に対して備えられるかが問題になってくる。
このような、組織内に緊張を創造する為には、客観的環境を主観的に再構成或いは、演出する分団幹部の洞察力、異質な情報、知識の交流、人間の抜擢などによる引率者の消防以外(一般社会人として人格形成を組織体制によって向上・構築という意味)をも含めた人格向上体制組織構造が必要不可欠なのである。更には、一切の哲学的思弁を排除して、極めて現実的にこの問題を考察するならば、理念が現実に内在して現実を動かすと言うのは、理念が達成せらるべき目標として現実の人々の、現実意識の中に宿り、現実人の意欲を方向うずけると言う事なのである。それも、一人または、小数の人々理想として描き出されているだけでなく、消防団に在籍する大多数の人々が、同一の理念を達成すべき目標として渇望し、これを共同の意欲の対象とし、共同の行動によって、その理念を実現していくことなのではないのだろうか。
多数の人々が、同一の理念を意欲の対象とし、それに向かって主体的に働きかけるとき、そこには、統一のある行動が現れ、それが新しい機能共同体を作り、組織を動かす原動力となる。この力は、対抗する力が在ればあるほど、これと抗争してこれを制圧し、場合によっては現存する大きな意味での現消防組織を粉砕する革命力(あえてこの言葉を選択)ともなって成就するのではないかと考えます。

リーダーシップとマネージメントの重要性について 
大東亜戦時下、京都には第16師団という軍隊組織がありました。この師団「ぼんぼん師団」と呼ばれるほどの部隊で弱い部隊として有名で、「また負けたか、16師団」と言われる程の最弱を誇る部隊であったという話です。この部隊、組織の再編成を図るために師団長として有名な石原莞爾が配属されます。石原は、師団の組織改革にあたり初めに手をかけたのが実は「食事の充実」だったそうです。衣、食、住。人間の基本であるこの3要素の中で食べ物の充実を課題として初めに取り掛かりました。「腹が減っては戦は出来ぬ」といいます。兵隊と言えども人は人。食わなくては死んでしまいます。組織の士気を上げるために石原の着目点は考えられそうで結構すごいことなのではないでしょうか。人に対して感謝する気持ちや動こうと思う動機付けは簡単な作業のようで結構難しい作業です。全くその気の無い人を動かすのは人物に対するカリスマ性やそれなりの信頼関係が無くては出来るものではありません。軍隊といえども組織は組織。人間生きるのに不可欠な欲求を満たす事で組織の根底から改革して言ったわけです。
 また、幕末に活躍した村田蔵六(大村益次郎)は技術者としての兵法家なのですが、部下が、指揮官である蔵六を良く知らない状況下で、一連の長州征伐と呼ばれる幕府対長州の戦争が始まります。この長州征伐の際、川を目前にした村田蔵六指揮の部隊は目前の敵に対して架橋して渡るか思案する事となります。その時、蔵六は指揮官として大声で「川へ飛び込め!」と命令し前進、目前の敵に対して戦闘を仕掛けたらしいです。そして、戦闘が終了し、川向こうの元いた場所に部隊が帰還しようとした際、今まで掛かっていなかった橋が掛けてあり部隊は橋を渡り帰還したというのです。蔵六曰く、これから戦闘をする部隊に勢い川へ飛び込む事が命令として出来ても帰還する際、疲れきりまた川を渡る事は部隊士気に影響するだけでなく戦力にも影響するのだ、と。後方の架橋部隊を上手く指揮したという面でも優れた采配ともいえますが、部隊の指揮にまで配慮した彼の演出とも言える采配で部隊は蔵六の指揮を安心し彼に付いて行ければ間違いが無いと思えるようになったとあります。これは司馬遼太郎の「花神」の逸話を拝借させてもらったのですが、まさに人を動かすのに命令一辺倒だけでは組織にボロが出るという逸話だと思います。
蔵六は戦う事だけ、戦闘に勝つことだけを考えたのではなく、そのような配慮にも長けていたのでしょう。
この石原莞爾、村田蔵六の逸話には、消防団幹部のリーダーシップとマネージメントの重要性を説いています。
今、非常時の組織として成立したはずの消防団が、平時の対外的内的見栄か、それとも、地位の私物化か、その本文を忘れ長い時間の間に少しずつ、その主体的目的から他与的条件、自己中心的な個与的条件の中でずれが生じてきた。  現消防団幹部には、マネージメントは有っても、リーダーシップ(現場指揮能力及び災害非常心理克服)が無いように感じられます。
マネージメントとは、目の前に有る梯子をいかにして効率よく昇るかを考える仕事であり、リーダーシップとは、その梯子が正しい場所に架けられているかを見極め判断する仕事です。どんなにすばやく梯子を登っても、その梯子が間違った場所に架けられていたら、目的地に達する事は出来ません。どんなにマネージメントが優れていても、リーダーシップが不在であれば結局のところその組織は無力にすぎない。それは、旧日本軍とその政府のように、本来は目的だったはずの事柄を目標だと思い込み、ノモンハン事件などの失策失敗の教訓を無視して、それを疑問にすら考察出来ずに、大東亜戦争に突入し暴走自爆の末に、国を滅亡に追い込む結果となったプロセスのようである。
我々消防団幹部は、現状を直視して目の前の問題を真剣に考え、そして将来を見据えた上でのビジョンを示すということ、そして、為すべき事は、次世代を担う団員に如何に自分で考え、自立を促すかだと思います。更になれば、自立できるような能力と意識をどう造るかであり、その自立できた能力と意識を相互の目的と照らし合わせて、消防組織が個人を、個人が消防組織を活用し合えるような仕組みを創設し維持して行かなければなりません。実質的な消防を目指す「町火消し」イズムの継承と、更に高度な資質の向上並びに伝承が、消防団幹部の使命ではないかと考えます。そのためには、各階級幹部が各階級指揮官としての自覚と誇りを持ち、全力で任務の遂行に真剣に取り組むことである

結びに代えて
「心よりのお願いと概念的改革案提示」
消防団業務は多岐にわたり、火災や風水災害への対応、そして行方不明者捜索など、厳密な意味においては、24時間、年中無休体制での任務の遂行です。 これは実社会での仕事や家庭を投げ打ち、分団長の命令での出動、または、待機等、この実情を考えると、義務感とか正義感、使命感と言うありとあらゆる薄っぺらな言葉などそこには存在せず、家族を守る・地域を守るその想いの中で「唯そこに災害がある、助けを必要としている人がいるから」、古い語を借りて言うならば、文字通り「滅私奉公」と言う事に成るのではなでしょうか。
今、消防団の幹部に求められているのは、自治体消防組織とそれを司る行政に対し、儀式的行事・競技的行事・団員の地位向上(官給品、団員報酬、社会的身分)などの消防団が抱える事柄を現実の問題として捉え、非日常的組織の部下を持つ組織人として、また、一人の人間として、改善提案及び改善要求しなければならない最重要課題であると思います。
この事柄こそ、現時点ではまだ自治体消防発足当時の体制が奇跡的に現存(実存組織体制、人数、平均年齢、そして正義)するこれらの地域の現役消防団員や、これから入団するであろう団員に対して上級現幹部がこの諸問題を、責任在る立場、権限を持って模索、そして打開策の確立を目指し行動を示す事により、非常時における人間関係が向上しその本来の業務「町火消し」である筈の「消防」の本質的かつ実質的主体性が受け継がれ、地域住民に対しての期待への受態性、そして、団員が胸を張って「私は消防団です」と自信を持って応えられる日が来ると確信します。

改革を妨げる壁として、
一・・・・自治体消防団そのものの制度の壁
一・・・・物理的な壁
一・・・・意識(心)の壁
組織改革とは、この三つの壁を打ち壊すことである。そこためには、
1、平時、有事に係わらず情報の共有化
2、消防団、分団での様々な問題に対し、討論の活性化
(全員参加意識の向上)
3、その合意を尊重する。(現場の声を聞く、意思疎通回路を太く、短く設定)。
4、現場(部そのもの)を重視する。(トップダウン)
5、消防団の指導者の信頼回復(ボトムアップ)
つまり
WHAT・・理念・目的の再確認と認識(実態の報告)
WHEER・限界の確認と認識(方針の明示)
WHY・・・障害の確認(自己限界の明示)
DO・・・・可能性の追求(協力の要請)
以上の項目を、消防団の幹部と称する方々によく理解してもらいたい。
無責任な組織にならない為にも消防団の指導者及び関係者に対し、楽をさせたいと言うのではなく、考察方法をもう一度再考し、限られた時間の制約の中で、より有効的な本来の業務に勤しんで貰う為、そして貴重な限られた時間を有効に活用したいと言う事を、十分理解して頂きたい。
そして「耳鳴りの彼方に」町火消しその視点と正義・・・と題して、日本国消防団が暴走自爆する前に、耳鳴りのする愛すべき三春分団の後輩たちの為、そして家族と三春町民の為に謹んで上申するものである。

「耳鳴り・・・」この題名は、三春分団員の会話の中で、
「シー!」「何か聞こえる」「サイレンか?」「なんだ換気扇か。」と言う語を、よく耳にする、耳の奥にサイレンの音がこびり付き離れないということである。          
END


| ryuichi | 06:58 | comments (x) | trackback (x) | 「戦陣藻」心苦雑記 |