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三春物語238番 高乾院の梅 「鶯宿梅」
三春藩主菩提寺高乾院の宇内に一本の桜の老木があります。
荘厳な伽藍も焼け落ちた江戸後期の「三春天明の大火」に焼け残った桜です。
いつの頃からか、その根元体内から梅ノ木が自生し、毎年可憐な花を咲かせます。

高乾院は、臨済宗妙心寺派の禅宗寺院です。
臨済宗は、鎌倉幕府が開かれる前年、宋から帰国した「榮西」によって伝えられた禅の一派です。
以来、戦国武将の庇護を受けるなど武士階級に好のまれた臨済宗は、三春でも水墨画や茶道など中世の文化に影響を与えました。
華やかというよりは質実剛健、動というよりは静。自然や閑寂を好む禅には梅が良く似合います。



「春告草」と呼ばれる梅は、その名のように厳しい冬を乗り越え、百花に先駆けて花をつけます。
北国三春では「梅ノ木がない場所を探すのが難しい」そんな言葉を耳にするほど、三春の風景に梅が自然に溶け込んでいます。
戦国期に田村義顕が城を築いてから城下町として、寺社を中心に文化的発展を遂げたこの地には、寒空にあって一輪一輪、凛とした表情を見せる梅の清らかさが似合うのでしょう。
「桜の花見」のような華やかさはありませんが、それがかえってこの土地には似合っているように感じます。

 「梅にしようか 桜にしよかいな 色も緑の松ヶ枝に 梅と桜を咲かせたい」

花に名残り雪を載せる姿や、春を待ちわびていた小鳥を枝にいざなう姿に、梅の魅力を感じます。何ものにも先駆けて咲く梅の花には格別の愛着を感じるように思います。
春を告げ、呼び込むものであると 信じられた貴い花なのでしょうね。  

また、梅は「好文木」とも呼ばれます。これは、「学問に励むと美しい花を咲かせる」という中国の故事に由来するもので、梅を愛でた学問の神様、菅原道真公を祀る天神様には、今も梅の古木が多く見られます。



 梅と鶯にまつわる話は、数多く残されていますが、中でも「鶯宿梅」の話は、よくご存知のことと思います。
 村上天皇の御代(平安時代中期)のこと。帝が大変大事にされていた御所清涼殿の紅梅が枯れていまい、よく似た梅をと探されました。
 やがて、西ノ京に住む紀内侍の屋敷の見事な紅梅が目にとまり、清涼殿へ植え替えられました。ところが、その梅の枝に一首の歌が結ばれていました。
 「勅なれば いともかしこし鶯の 宿はと問はば いかに答へむ」
 この歌を詠んで、胸を打たれた帝は、ただちにその梅を内侍にお返しになったというお話です。
 己の欲するがままに言い、行動するのは容易いことですが、他人の心を傷つけず、自分の意思や気持ちを正しく伝えることには、相手への温かい思いやりの心と冷静な判断を要します。
 内侍は、「歌」という文学を通じて帝の心に訴えました。そして内侍の教養と知性が、帝に振り返る余裕を与え、自ら「我儘」を気付かせたのでしょう。
 私たちの日常の暮らしの中にも、これに類することが多々あります。人に無理を言われたとき、人に何かを注意したいとき、何かをしてほしいとき、中でも目下のものや、子供に注意をするときは、とくに温かい思いやりと冷静さを大事にしたいものです。どんな正論も、相手に受け入れられて、はじめて意義のあるものですから。

「梅は咲いたか 桜はまだかいな 柳ゃなよなよ風次第 山吹ゃ浮気で色ばかり」

梅が我が国の文献に表れるのは、7世紀末から8世紀初頭であるといいます。
そういえば万葉集なども、桜を詠んだものより梅を謳ったものの方が遥かに多いようです。これより以前に梅についての文献がないこと、そして山野などに自生しているものがないことなどを理由に、中国から渡来したものだと考えられています。
しかしその端緒はどうあれ、古来より現在も尚、初春を慶ぶ象徴とされてきた花は日本人の心に深く根ざしたもののひとつであるといえましょう。

谷梅之助は、高杉晋作が使った変名です。
また、才谷梅太郎、坂本竜馬の変名です。

「どんなに寒さ厳しく冷たい冬が続いても必ず春は来る」まだ冬も終らない季節から、何よりも花を付け始める梅。

維新前夜、明治という新しい国を春になぞらえ、幕末の早春期に活躍しているという意味をこめて、二人は変名に「梅」という字を使ったのでしょう。



| ryuichi | 05:45 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春城下荒町::安日山高乾院 |
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