CALENDAR
S M T W T F S
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31       
<<  2024 - 03  >>
CATEGORIES
ARCHIVES
PROFILE
    k1
OTHERS




「猫冢(塚)」 旧三春藩上席家老屋敷より発見!



旧三春藩秋田氏の居城「三春城」


その御城坂にある家老屋敷跡から「猫冢(塚)」が発見されました。

旧三春藩秋田家上席宿老(家老)山舘秋田氏の家老屋敷跡をの庭を修復している当家御庭番のから注進が入りました!






昨年から手掛けている秋田氏庭園のお城側の土手の雑木を伐採中に、紅枝垂れ櫻の根本付近から出土したということです。







三春藩と「猫」といえば「三春藩化け猫騒動」が連想されます。

その中心人物別格家老荒木玄蕃。

•化け猫騒動として三春城下が大火災に見舞われ御城まで消失します。

•大雨の影響で荒木屋敷が土砂崩れで崩壊し多数の死者を出します。




この枝垂れ桜は樹齢200年以上です。
又、枝垂れ桜は土砂崩れ防止にために植樹したと考えると、その樹下に猫冢を置くというのは、何か因縁めいたものを感じます。


これらの事を年代順に置いて行けば面白いことが判明しそうです。

己丑(つちのとうし、きちゅう)2月6日の刻印が彫られています。


三春御家騒動以後の”己丑”の歳付近の三春藩での出来事を紐解いていくと面白いことが分かるかもしれません・・・


己丑 明和6年(1769年) 2年前の明和4年、秋田千季(荒木玄蕃の孫)従五位下信濃守に叙任される。
                前年に新町大火、
                 
己丑 文政12年 (1829年) この年12月、秋田肥季従五位下信濃守に叙任される。
 
己丑 明治22年 (1889年)  ・・・・



尚、家老屋敷跡は個人所有の私邸ですので現在は非公開です。











三春城下新町にある旧三春藩所祈願所真照寺の本堂須弥壇左右に鎮座する「弘法大師木造座像」と「興教大師木造座像」。




この己丑(つちのとうし、きちゅう)の日に因んで、三春の火事の歷史をひもといて見た

これは伝説ではない記録である。

延享2年(1745年)3月15日 
北町亀井の光岩寺から出火、御旗町、北町、大町、中町、荒町まで延焼した。
 焼失家屋377軒、四ケ寺、御堂四つを焼失。


宝暦12年(1762年)5月27日 
大町より出火、中町、八幡町、荒町、北町に延焼。焼失家屋305軒程が焼けた。


安永元年(1772年)年3月22日
大町より出火。北町、荒町、中町、八幡町に延焼。
焼失家屋400軒余。 紫雲寺本堂焼失


天明5年(1785年)2月22日
 この火事は「滋野火事」と呼ばれている三春城下未有の大火である。

これにからむ伝説については前号に書いた通りである。

尼ヶ谷の御厩(おんまや)番小屋から出火、中町、大町、山中、清水、北町、荒町の侍屋敷、町家、神社、寺院、そして殿樣の御殿 で総なめにした。

夕方までに三春城下を焼き尽くし、荒町は龍穏院前、新町は真照寺前、入清水の中ほどで何とかくい止めましたが、夜中までには城も本丸表門を除いてすべて焼け落ちました。

当時、三春にいた藩主倩季は、最初は北町の黒門辺りに陣を構えていましたが、城に火が迫ると三階櫓に納めていた幕府からの「御朱印状」とともに亀井の祈願所宝来寺へ入ります。

夜には祈願所真照寺へ御座所を移し、同寺古四王堂に朱印状を納めました。


その後、5月には馬場に新設した仮御殿へ移りますが、11月には馬場御殿も焼失しまし、近郷の庄屋宅を臨時宿所として歩いたという。

天明3年(1782年)から連続凶作だったので、人足、炊出し等も思うに任せず、炊出しは“かゆ飯”で、罹災民には非常な苦しみだった。


天保元年(1829年)12月5日
「御厩火事」 裏町、後免町、中町、大町類焼。


天保12年4月4日
山中より出火。山中を全焼し南町まで延焼。


天保13年(1830年)8月5日
荒町の町屋敷全焼。


嘉永3年(1850年)2月5日 江戸大火。
愛宕下三春藩上屋敷全焼


明治6年(1873年)5月8日
中町、荒町、大町130軒焼失。



明治15年(1882年)5月6日
北町大火。焼失家屋80戸。


明治27年(1894年) 2月10日 義勇消防組より公設消防組へ改変 「消防規則」公布。


明治39年(1906年) 3月22日 中町大火。中町町屋敷全焼。焼失家屋115戸。


明治43年(1910年) 11月23日  八幡町踊り場付近より出火。130戸を焼失。


明治44年(1911年) 11月14日 二十三夜様の灯明残火で八幡町から発火、八幡町、馬場尼ヶ谷、御免町、中町から荒町の一部まで延焼、335戸を焼失。


昭和3年(1928年) 火の見櫓の鉄骨化。中町、北町、新町が完成


昭和4年(1929年) 3月25日 新町大火。 30戸・40棟を焼失



昭和22年2月22日、三春小学校第一校舎、三春高等女学校校舎焼失。


享保十三年から慶応四年の140年間に、三春城下で発生した複数軒の火災発生件数は、98件に登り、その半数近くが、字全て以上を焼き尽くした大火となりました。
三春の火事は歴史の示す通り、2月3月に多い。



 






天明の凶作や天明5年の大火による城下町の焼失後も猫(滋野)の怨霊に夜毎苦しめられた三春藩4代藩主頼季。

その孫である7代藩主倩季(千季)公が、この木像の胎内に滋野多兵衛の位牌を入れて祈願所である真照寺に納めて、その怨霊を鎮めたと伝わる木像です。

この弘法大師と興教両大師木像は、木像安置の70年前に起こった「正徳・享保事件」そして「腹切り梅」「三春化け猫騒動」と呼ばれる、三春に伝わる古い伝説が付随しています。






三春御家騒動・正徳、享保事件と「三春猫騒動」
 
 三春藩主継嗣問題に端を発し、「三春猫騒動」にまつわる正徳事件。

そして、家老荒木玄蕃高村および四代藩主秋田頼季(玄蕃の子)の閉門を中心とした享保事件。

徳川幕府幕閣から、町方まで巻き込こんだ三春藩の御家騒動です。
 
正徳事件・「三春猫騒動」・当時、家老荒木内匠は、世継ぎとなりうる幼君を亡き者とし、我が子を藩主に据え藩の実権を握ろう企んでいました。

しかし、幼君の傳役滋野多兵衛にその野望を阻まれた、やがて滋野は荒木によって無実の罪をきせられ、大町紫雲寺の境内、白梅の木の下で切腹させられ、傍らにいた猫が怨霊と化し、間もなく野望を果たした荒木に祟るようになったと云います。






今も紫雲寺に、残る滋野多兵衛の墓には、猫の怨霊に苦しめられた荒木が、槍で突いたという傷がのこっています、又境内の白梅は紅梅に変わり、猫の怨霊は、約七十年後の「天明の大火」の時再び登場します。




 
享保事件は、家臣団の勢力争い・対立の末、幕府老中同士の対立を呼び、その政治紛争で負けた、荒木玄蕃高村の蟄居と、その子である、藩主秋田頼季の閉門により、正徳の事件より約八年続いた、御家騒動は、幕閣の介入により幕をとじました。
 
天明五年二月、八幡町より火の手が上がり荒町、高乾院・荒木家の墓を焼払い、北町を駆け下り、舞鶴城天守を炎上させました、その後も火の勢いは衰えず、大町から南町そして新町へと軒並み家屋を灰にしていきました。

消火指揮に出向いた、時の藩主秋田千季(荒木玄蕃の孫)の避難所・真照寺へ追うかの様に火は、勢いを増し南町,山中、新町へと向かった




 
真照寺住職が門前まで迎えに出たところ、殿様の後ろに猫の怨霊が見え、袈裟の袂で殿をかばい隠すようにして寺へ向かい入れました。
火勢は、ちょうどその場所・今の昭進堂の場所で、三春全域を焼き尽くした火災は、鎮火したと伝えられています。

この大火後も猫(滋野)の怨霊に夜毎魘された千季公は、真照寺へ、弘法・興教両大師像の中に紫雲寺で切腹した滋野多兵衛の位牌を入れて納め、怨霊を鎮めたといいます。








三春城御花畑にあったという「主夜神」

紫雲寺山内にもあったと記録に在ります。

主夜神という名称の「主夜」は「守夜」と転じて、夜を守る神として崇められ、盗難や火災などを防いでくれる大変なご利益をもつ神様であるとされています。

夜を守る神と、闇夜に眼を光らせる猫がむすびつき、主夜神は古くから猫、とりわけ黒い猫が御使いであるとされています。

この辺にも「三春城下化け猫伝説」との何かしらの因果が見えてきます。


主夜神 夜神

主夜神は、「婆珊婆演底主夜神(ばさんばえんていしゅやじん)」として、「華厳経入法界品」に「恐怖諸難を取り除き、衆生を救護し、光を以って諸法を照らし、悟りの道を開かせる」 と説かれ、恐怖の厄を免れさせて安隠を与へるなど、古くからすべての衆生を救護する神として篤い信仰を受けてきました。





三春藩秋田家「町火消し組」と「家中火消し組」
  江戸期の三春城下は、山間に位置しており、丘陵の谷筋を縫うように家並みが軒を連ねて城下町を形成していました。

また、火消し組の消防設備・資機材の未発達と茅葺屋根、障子戸等の建物構造の上に、城下が山間地であるために、水源が乏しく、水利の不便に加えて谷筋を吹きぬける風は強風となり、
一度火の手が上がると風にあおられて、数件から字全て、さらには「天明五年の大火」の様に城下町の約八割焼失の上にお城が焼け落ちるほどの大火に、たびたび見舞われていました。

 三春藩藩士足軽組による「家中火消し組」と、町奉行支配町方による「町火消し組」が組織されて火災鎮圧に立ち向かっていました。
 江戸中期の正保二年(1645年)に秋田家三春藩、初代藩主秋田俊季公入府の折りに火防に就いてのお触れが出されました。
 「火事出来事は、町中の面々水桶を持ち、早速火下へ可馳せ参じる事」
 大火に危険性を危惧した三春藩では、ことの重要性から「火消し人足組」の指揮命令系統及び組織編成の度々改革を実施し、現代の三春町消防団と同じ「現場対応型の火消し組」の組織編成に着手しました。

 城下「町火消し人足組」は、一番組50名(大町、北町)、二番組41名(中町)、三番組42名(八幡町)、四番組63名(荒町)、五番組40名(新町)で構成して、「町方火消し組」として火災の際には火災鎮圧に向け、消火・類焼・防火を各組の連携協力で、消火活動に従事していました。

 一方、「家中火消し組」の編成は、足軽組の御籏組・御弓組・御持弓組・御持筒組・御先筒組を一番組から三番組に別て構成され、一組37名で編成し計111名(内町方人足90名程度)で構成して火災に備えました。

 その他、城下町以外の在方在住の者は、御殿・現三春小学校の裏山にあった太鼓堂の太鼓の早打ちと、大元神社境内にあった鐘撞堂の早鐘を合図に、北町口には熊耳村・笹山村、荒町口には七草木村・南北成田村など、各部落単位でそれぞれ割り当てられた地区や、寺社仏閣の消火・防火・残火処理並びに警護のため城下に参集して、「家中火消し組」、「町火消し組」の消火手伝いに出向きました。



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍





| ryuichi | 05:25 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主 安東秋田氏 |