2018-04-27 Fri
旧広報三春「三春今昔物語」より~城下大町の巻
昭和30年代、現在の「広報みはる」の前身にあたる合併前の三春町広報誌が発刊されていました。
その中に、三春の歴史や古い物語に関するコラム欄があります。
題字とカット挿絵を渡辺俊太郎氏、執筆及び資料提供は、当時の三春町文化研究会の川又恒一氏、多田照雄氏、天野竜雄氏、影山常次氏、橋本宗哲氏、橋本久右エ門氏、大谷研明氏、渡辺利雄氏。
そして、役場の当時担当者が渡辺俊三氏です。
懐かしいお名前があり、この顔触れを見ますと当時の三春文化の担い手の面々ですね。
コラムは、一年を通じてシリーズ化していたようで、「三春怪奇伝説」「三春古跡漫歩」「三春今昔物語」などワクワクするタイトルが並びます。
そのコラムの「三春今昔物語」から、三春城下大町の段を見てみますと、三春城下大町は
三春城下でも藩庁、役所が集中していた関係で町屋は少なかったとあります。
本城の大手門(JA付近)から守城稲荷前までは、町屋は全く無く、現三春小学校敷地に、本御殿がありました。
現大町本通りに沿っては、奥屋敷、奉行所、公所、近習、目付などの公職人や役宅倉庫が並んでいたと記されています。
桜谷には、細川縫之助、佐塚秋田廣記などの重臣から軽輩の武家屋敷がありました。
現在の三春町福祉センター(前の県中土木事務所)には、細川孫六郎宅。
高齢者住宅付近には、秋田傳内宅。
会下谷入り口付近に、小野寺舍人宅。
その向いは、松井正右衛門宅。
その隣には、吉田造酒があり、かつては荒木国之助宅(現保健センター)がありました。
かつて三春幼稚園があった会下谷は、当時「百石谷」と呼ばれていました。これは百石程度の藩士の屋敷が軒を並べていたことに由来するとされています。
御城坂には、昨今枝垂れ櫻の古木、そして「猫冢(猫塚)」(現在は非公開)なるものが発見された旧城代家老の山舘秋田氏、そして、北畠秋田(浪岡)氏など重臣屋敷が居を構えています。
江戸期の秋田氏藩政下でも御城は御城山に本丸以下がありましたが、通常の政務の執行機関である役所や、藩主家族の住んでいたお屋敷は、下の御殿(三春小学校付近)や御殿下にありました。
明治5年、この御殿跡の敷地に現三春町立三春小学校が建てられました。
前記の三春広報誌が発刊された昭和30年代までは、上り口の土手に松の古木が数本あり、昔も面影を残していると記されています。
今の明徳門のある階段の左右にある桜が植わっているあたりでしょうか?
また、校庭には大きな藤棚があり、御殿があったころには能舞台があったと記されていました。
大町「四ッ角」の石橋は江戸末期の文政13年(天保元年)に完成し、その工事費が39貫150匁と記録に残っています。
今の物価にしたら如何ほどでしょうか?
石橋の傍らには、道路原票(今は南町福祉センター付近に移設)があり、その台座(今はありません)には、三春から各地への距離が記されていました。
白川11里26丁。若松17里19丁。二本松5里32丁。
福島11里。 米沢21里半。仙台32里22丁。
盛岡79里23丁。中村7里35丁。
平17里20丁。棚倉14里33丁。
等々・・・そして、資料では遠く長崎や、広島、江戸、名古屋・・・など
それぞれ全国各地の旧城下町までの距離が刻まれていました。
蒼龍謹白 合掌
さすけねぇぞい三春! 拝
「はなまつり 2018」 稚児行列
子どもたちの健やかな成長を願って行われる伝統的な行事で、稚児衣装をまとった子どもたちが三春城下を歩きます。
行列コース
三春小学校下 ⇒ 大町 ⇒ 東邦銀行駐車場 ⇒ 龍穏院
・日時 / 平成30年5月5日(金) 10:00~11:00
・三春交流館「まほら」の前で甘茶の接待があります。
三春町各宗寺院和合会・三春町各宗寺院護持会
RFCラジオ福島「Yammy's Garden」(毎週日曜日の午後7時30分)や、馬場の湯「若松屋旅館」ディナーライブでお馴染みの白河が生んだシンガーソングライター”Yammy*(ヤミー)”
New Singleは「三春滝桜」への想いを歌にしました!
「愛しきキミ想ふ」1000円(税別)
作詞:Yammy* 作曲:廣瀬紳一編曲:松田純一
三春昭進堂、及び若松屋さんで絶賛販売中!
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 05:26 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
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