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司馬遼太郎著小説「峠」が、「峠 最後のサムライ」のタイトルで映画化発表‼




司馬遼太郎氏の名作小説「峠」が、「峠 最後のサムライ」のタイトルで映画化することが発表されました。

監督は、小泉堯史氏監督。

河井継之助役には役所広司、妻・おすが役に松たか子はじめ、田中泯、香川京子、佐々木蔵之介、仲代達矢ら豪華キャストが出演しています。

1966~68年に毎日新聞で連載された司馬遼太郎原作の「峠」は、幕末の風雲児と呼ばれた越後長岡藩家老・河井継之助を題材にした作品です。







私と河井継之助との出会いは約40年くらい前のNHK大河ドラマ「花神」の中に登場した髙橋秀樹さんの演じる河井が最初でした。

子供ながらに、田舎の小さな大名、それも一代限りの家老が、永世中立を称え「会津と薩長の仲立ちをして平和解決を目指す」という壮大な夢に感銘を受け、さらに平和解決が無理となるや当時世界レベルの軍事力にまで仕上げた長岡藩を率いて、徹底的に戦うと・・・これがが始まりです。

それから、10年後カネサン書店で司馬遼太郎の「峠」上下巻に出会って衝撃を受けたことを覚えています。







「峠 最後のサムライ」

物語の舞台は、徳川慶喜による大政奉還も奏上され、260年余りに及んだ江戸時代が終焉を迎えた幕末。幕末の動乱期を生き、最後には武士として、新政府軍と会津を中心とする奥羽列藩同盟の戦いの中。

長岡藩は、河井の指揮のもと行政改革を断行し借財の返済貯蓄の充実を図って、当時世界でも類を見ない最新式の武器と調練によって鍛えた兵士によって最強の軍隊を組織していました。

その武力を背景に永久武装中立を主張し、新政府軍と佐幕会津藩の仲立ちを買って出ます。

しかし、両軍からの妨害各種工作によって奥羽列藩同盟に加盟し新政府軍と対抗する道を選んだ河井の生涯を通じて“「サムライ」=日本人の生き方”“リーダーとしてのあるべき姿”を問いかけるという作品です。








田中と香川が継之助の両親である河井代右衛門、お貞、佐々木が継之助の盟友・小山良運、仲代が長岡藩先代藩主・牧野忠恭(雪堂)として登場する。

そのほか、坂東龍汰が良運の息子・小山正太郎、永山絢斗が継之助の従者・松蔵、芳根京子が旅籠屋の娘・むつを演じ、榎木孝明と渡辺大が、長岡藩士の川島億次郎&花輪求馬として出演します。







大名・松平定敬役の矢島健一、百姓の老人役の山本學、月泉和尚役の井川比佐志、徳川慶喜役の東出昌大、土佐藩士・岩村精一郎役の吉岡秀隆といった、そうそうたるメンバーが顔をそろえている。







「峠 最後のサムライ」は、9月中旬から約3カ月間、継之助の故郷・長岡市をはじめ、新潟を中心に茨城や京都での撮影を予定。
最も壮烈な「北越戦争」を描くため、約5000人規模のエキストラを募集する。

2020年に全国公開。








只見町にある「河井継之助記念館」です。

幕末、越後長岡(現新潟県長岡市)の非門別家老で”戊辰戦争”に際して、長岡藩軍事総督として長岡藩を率いて戦いました。
画像は、当時世界で3基しかなかった「ガットリング砲」と河井の銅像です。

何故只見町に長岡藩の家老の記念館?と不思議に思うかもしれませんが、薩長等の西軍との戦いで奪われた長岡城を再度奪い返すなど、戊辰戦争電の最大の激闘を繰り返し、約半年間にわたり善戦しましたが、自身も銃弾の倒れ大けがを負い、長岡藩の敗走となり、長岡から栃尾経由で”八十里峠越”を超えて会津若松を目指す途中、この只見の塩沢の医師矢沢宗益宅で亡くなりました。







追撃する西軍が迫る中、死を悟り、河井は下僕の松蔵に棺桶と薪を用意させ「自分の亡骸を西軍に渡して成らぬ・・・」と云い残し、燃え上がる薪を観ながら息を引き取ったと司馬遼太郎の著書「峠」では締めくくられています。








火葬された河井の遺骨は、大きな部分は松蔵が会津へ運び埋葬され、後に長岡の河井家の菩提寺栄涼寺に改葬されます。

拾い残した遺骨は、村人が現記念館の東手にある医王寺に埋葬され、毎年命日の8月16日には慰霊の墓前祭が開催されています。







この只見の記念館とは、こんな立派な記念館が出来る30年位前にバイクで初めてお邪魔したのが最初でした。

その時は、まだ矢沢さんの子孫である強面のおじいさんが、河井終焉の間だけを只見ダム建設に伴うだ只見川増幅移転の際に移築して自宅兼用で細々と個人記念館として開館していました。

看板もお手製と思われるような粗末なものでしたが、河井継之助館主である矢沢さんの熱い想いには感服したことが思い出されます。








当時、遺品や説明のパネルが並ぶその終焉の間d、小説「峠」の中に在る河井の終焉の場面で、矢沢宅の隠居で、天上を眺めていた・・・涙が一筋~という下りを思い出し、ちょっと横になったらそのまま寝てしまい、矢沢さんに夕食をごちそうになった事が懐かしく思い出されます。








以来、時折お邪魔していますが、平成3年にこの記念館がオープン、そして平成20年にリニューアルして現在に至るです。

当店のチラシ「塵壺」も、「菓匠蒼龍」も、さらにペンネーム蒼龍も、この河井継之助からというのは言うまでもありません。







以前、長岡市内に河井継之助の記念館がなかったころの話ですが、長岡の商人の方々と会食した折に”吉の川”を呑みながら、「河井継之助は、山本五十六と共にこの長岡の世界に誇れる宝です!」
「記念館の建設を行政とともに進めるべきだ!」「長岡の商人は何をしているんだ!」と随分と意気込んで話をしたことが懐かしく思い出されます。






長岡河井旧宅付近にある河井継之助記念館



長岡も、戊辰戦争(北越戦争)では、軍事総督である非門別家老河井継之助の戦争の調停・回避・中立等の奮闘虚しく、戦争に巻き込まれ、敗戦国となります。












さらに、一時賊軍の汚名を着て長岡の歴史を語るのを憚られていた時期もあります。






後に、海軍の山本五十六大将(後に元帥)は、その汚名払拭の為にどれほど尽力したか計り知れません。



大平洋戦争直前に、郷里長岡中学での山本五十六の演説を聞きますと、その思いが伝わり胸が熱くなります。




山本五十六は、当時の欧米事情にも詳しく、戦略的に見て日独伊三国軍事同盟や日米開戦に最後まで反対していました。

私は河井継之助が小千谷談判に赴き、天下の和平を談笑のうちに決しようとした。
あの精神をもって使命に従う。
軍縮は、世界平和、そして日本の安全のため、必ず成立させねばならぬらぬ。




世界海軍軍縮会議予備交渉に出席する際に、郷土長岡の先人河井継之助の小千谷談判を持ち出し友人に語った言葉








河井継之助も山本五十六も、結果的には戦争の最高責任者として敗戦を全て背負いこむことになりますが、その前段でどれだけその戦争を回避しようとしたか・・・
今を生きる、我々は忘れてはいけません。







三島にある早戸温泉鶴の湯です。


只見で河井が没した後、若松を目指した長岡藩士が傷をいやしたといわれる温泉です。






悠久の流れが平和の象徴に思えてなりません。







”義をもって戦に臨んだ”と河井継之助を表する方がいますが、私はさにあらず司馬史観でいうところの河井継之助の学派陽明学の教えに則って”自分の為すべきことを為しただけ”だったんだろうともいます。


当時、内戦の国益としての損失を考えられたのは、勝海舟と河井継之助だけだといわれています。


義を義とするならば、その儀は武士として殿様や領民に尽くす忠義であって、佐幕や勤皇といった輩に対するものでは断じてないと思っています。




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍





| ryuichi | 04:29 | comments (x) | trackback (x) | 🌸蒼龍窟 河井継之助 |