2009-04-14 Tue
直江山城守兼続が、好んだとされる言に「絶えるを継ぎ、傾かんを扶く]
という言葉があります。
これは、「斉桓の政」と呼ばれた、古代中国戦国時代の覇王桓公の言葉です。
鄭の争いと同時期。東方の大国斉にも内乱が起きました。
君主であった襄公が殺され、無主となった斉の君主の座。
どちらが先に斉に入るか、亡命していた公子小白と公子糾、二人の公子が競いました。
ここで管仲、名を夷吾という男が登場します。
公子糾に仕えていた彼は、小白の帰国を妨害するため街道に待ち伏せて襲い掛かかります。
管仲が放った矢は小白の腹部へ吸い込まれ、その後、動かなくなったことを確かめた管仲は去っていきましたが、実は矢はベルトの留金に当っており、小白は生きていました。
一足先に斉に入った公子小白は即位し。
死後桓公とよばれます。
そして、魯の後ろ盾を得た公子糾を魯軍もろとも追い返しました。
魯に逃げ帰った管仲ですが、桓公はこれを殺そうとします。
しかし、腹心の鮑叔がいいました。
「君が斉だけを治めるのなら、私事で足ります。しかし、覇王となるを欲するならば、管夷吾で無ければなりません。夷吾のいる国は権威があります。彼を失ってはなりません。」
鮑叔の言葉を容れ、桓公は魯に対し、斉で裁くという名目で管仲の身柄を魯から引き受けます。そして、斉につくと管仲を宰相に登用しました。
管仲を得た斉は国力を増し、遂に覇者となります。
覇者となったのは管仲の功績であり、桓公の功績ではないともいわれます。しかし、殺されかけた仇敵を宰相に据えた度量は、やはり尋常ではないといえるでしょう。
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