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塵壺334 三春城下 丈六の由来 丈六佛 丈六薬師堂





滝桜を筆頭に枝垂れ桜が咲き誇り、山桜や染井吉野が彩りを添える春陽の郷三春。

その三春の城下に春爛漫を告げる八幡神社の春祭り。

今年も“八幡様の長獅子”が桜舞い散る城下を勇壮に舞って彩を添えてくれました。
こと、夕闇迫る還御の際、社殿へ続く参道の満開の桜並木の中を提灯に照らし出されて勇壮に舞う長獅子は幻想的です。

その八幡町から一本路地を入った小路に“丈六(じょうろく)”という地名が残ります。

この地名の由来は、城下新町にある天翁山州傳寺の御本尊“丈六佛”(じょうろくぶつ)と呼ばれる木像阿彌陀如来坐像(もくぞうあみだよらいざぞう)に因んでいます。

この丈六とは、鎌倉佛師が定めた仏像の大きさの基準「一丈六尺」からきており、州傳寺の阿彌陀如来坐像丈六像は半分の約8尺 (2.43m)とされています。


三春城下新町の州傳寺の御本尊は、その創建を平安時代、桓武天皇御代の征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)による東夷追討に由来した仏像で、鎌倉期の作とみられます。







田村麻呂の帰依僧“延鎮(えんちん)”が、田村麻呂の戦勝を祈願して延鎮自らが脇持仏の勝軍地蔵・毘沙門天とともに彫ったものとする伝説が伝わっています。

延暦年間の坂上田村麻呂による東征の帰路、守山(現郡山市田村町守山)に大元帥明王を勧請し、丈六佛である阿彌陀如来坐像を赤沼村に安置します。

時代は下がって、田村麻呂の末裔とする戦国期の田村義顕公(三春城主田村氏)の守山からの三春入城に伴って三春城下の現在地である丈六の地に移しました。








三春城下では舞鶴行者(ぶかくぎょうじゃ)が、赤海山万徳寺(廃寺)を開山(三春城下丈六か?不詳)して、丈六佛を移して御本尊としたとされています。

三春が会津蒲生領時代の慶長5年には、会津藩主蒲生郷成公が創建した丈六堂へ移され、江戸末期の秋田氏の時代には享保の初めに順国(じゅんこく)という道心者が来て新しく丈六堂(別当大聖寺)を造営して安置しますが、明和九(1772)年の火災に遭いこの仏像だけが焼け残りました。

丈六堂から阿彌陀如来坐像が、現在の州傳寺に移されたのは明治二十一年のことで、その長い歴史の中で、時代とともに移転、そして火災や様々な災難に遭遇しながらも現存するその福与かな御姿に心が和み、自然と手を合わせます。

  州傳寺「丈六堂建立勧請文」保観尼(文政十一年)及び三春町史参照

現在、この丈六堂は御本尊を薬師如来として「丈六の薬師堂」として近隣の隣組の皆様の御厚意によって守ってこられ、毎年4月29日(祝)には、丈六薬師縁日の祭典が執り行われて隣組各位の方々の健康を祈念されています。

また、この隣組の方々は毎年7月には丈六の通りに七夕様を飾って三春城下を彩り梅雨明けの三春の風景として私たちを楽しませてくれています。






丈六地内には、かつては大桂寺(廃寺)があり、年代不詳(昭和初期?)ですが、無住になったときに御本尊はじめ仏具すべては同じ曹洞宗である城下荒町の龍穏院に引き継がれました。

墓地には三春藩の儒者である倉谷鹿山の墓があります。

大桂寺の読み方は“だいけいじ”ですが、地域の人々はその昔は“だいげじ”と呼んでおり、無住・廃寺になった後も大桂寺延命地蔵を納める地蔵堂が建立され、お地蔵様の縁日になると子供たちや近所の人たちが集まり数珠回しなどをしていました。

 文中に登場する、赤沼(現郡山市中田町赤沼)には、戦国時代には田村・安積の要として重要な役割を果たす赤沼西平寺館(あかぬまさいへいじたて)があり、赤沼弾正という武将が城主を務めていました。

尚、雄(オス)の鴛(オシドリ)を殺した猟師が雌(メス)の鴛に祟られるという小泉八雲著の怪談「鴛」(オシドリ)の舞台は、この赤沼とされています。






蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!   拝




| ryuichi | 04:20 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |