2019-05-31 Fri
三春舞鶴通信 第15号
主に首都圏に三春からは離れて暮らす三春縁の方々で構成された三春舞鶴会(織方郁映会長)の機関紙「三春舞鶴通信」の第15号が発刊され、事務局の佐久間様より送付いただきました。
早速、三春昭進堂店内配置分もございますので、早速店内に配させていただきます。
冒頭、三春歴史民俗資料館の藤井典子さんの「田村会雑記」に助けられてから始まります。
先に内藤則邦さんから寄稿された「三春会」後に「田村会」、そして「田村学寮」関連の寄稿が多く楽しく拝読させていただきました。
田村会
当時、青雲の志を抱いていてふるさと三春から上京した人々の会です。
明治13年に、「三春会」が発足し、明治35年に始まった「田村青年会」は3年後には「三春会」と合同して「田村会」へと改称、「田村会雑誌」も発行された由。
織方会長の「田村会」と「三春舞鶴会の中で、初代田村会会長が河野広中衆議院議員だったこと、田村会結成趣旨が三春舞鶴会と同じく”会員相互の親睦と、会員及び三春町の発展に寄与すること」ということが唱られていること・・・
また、橋本捨五郎さんによる「田村学生寮」異聞でには、元家老家の浪岡具雄から「修行するのは少壮の時である。一家の些細なことに拘わり合っていつまでも田舎に居ると。、一生の悔いになる。早々に上京すべき」と上京して勉学に励むことを進められた加藤木三兄弟の話。
また、戦前の三春小学校の卒業式に於いて成績優秀者に秋田賞と加藤木賞が贈られていたこと・・
菅野吉雄さんの「田村学寮」跡を訪ねてでは、浪岡具雄が田村学寮建設を提唱したこと。「田村学寮雑誌」を全八巻を合本して残したこと。
深間内久蔵氏が千三百余圓の私財を投入し建設資金にしたことや藤泉賢四郎(後の大林組社長大林賢四郎氏が設計施工を請け負ったこと。
田村学寮は、谷中坂道52番地に建設され、その後の織方会長の調べでは、学寮は昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失したことまでが判明していることなどが記載され興味をそそそられます。
三春城下清水にある天澤寺本堂内の掲げてある河野広中直筆の般若心経写経
ペンリレーでは、たくさんの方々の寄稿があり楽しく拝読できました。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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