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塵壺339号 「御代参日誌」 三春藩絵師 中村寛亭 令和元年10月発行





「御代参日誌」 三春藩絵師 中村寛亭







ご縁があり「中村寛亭」という本を手にしました。

著者は三春藩絵師中村寛亭の末裔に当たる寺崎房子とあります。

中村寛亭を丹念に調べ上げた書物となっており、彼の生涯や作品など興味深く丁寧に書かれています。







中でも江戸末期の天保五年(1835)、早春から初夏にかけて行った“伊勢神宮参詣”の道中記「御代参日誌」(個人蔵)の面白いこと面白いこと!


絵師ならではの観点で描かれており、挿絵も盛りだくさんに若き寛亭らの楽しい道中の息づかいが聞こえてくるようです。







寛亭は、藩命を受けて三春藩主代参として三春から畿内まで従者2名を連れて伊勢神宮参詣へ向かいます。

三春から江戸、箱根、富士山、桑名、伊勢神宮、北野天満宮、熱田神宮、そして鎌倉鶴岡八幡など、行く先々でのエピソードや当時の風俗をユーモラスに描き、今にも書物から飛び出しそうです。









伊勢では、三春藩士らしく伊勢朝熊の永松院にある三春藩主初代俊季公の実父である高乾院殿、前侍従・安倍秋田實季入道(あべあきたさねすえにゅうどう)の墓所にも参っています。


私自身も昨年伊勢参拝に行ってきたものですから、読み進むうちにその土地ならではの名物、景観、そして風習の一つ一つが旅日記の世界に引き込まれ、私も寛亭御一行様とおもしろお
かしく伊勢神宮参詣の旅をしているようでした。







幕末から明治中期にかけて、絵画の創作活動や門弟の育成に努めた三春藩絵師中村寛亭には、旧三春藩領内外にわたって、64名に及ぶ門人が知られており、そのほとんどが農民でした。

寬亭は、本名を中村匡(ただし)といい、文化4年三春藩士今泉権左衛門の三男として三春城下清水裏町南に生まれ、17歳の時に同じく城下清水の天澤寺入り口脇に屋敷を構える三春藩士中村多巻の養子となっています。

文政3年(1820)、御小姓役で家中勤めに入りますが、文政12年(1829)、藩主の命により、絵師荒木寬快に師事し絵の修業に入り、三年後には寛快より「寬亭」の号を許されています。



また、中村寛亭(匡)は、有能な官史でもありました。

三十六才で正式に中村家を継いだ寛亭は三春藩領在郷・東郷(三春藩領在郷・東、西、中、南郷に分かれている)代官から始まり、四十五才で町奉行及び宗門奉行、起発奉行を務め、五十四才で三春町町奉行を拝命しています。

時に幕末、三春藩も激動の渦に巻き尾まれます。

三春藩鉄砲物頭(鉄砲組組頭)から外交を担う三春藩外事掛へ転じて諸藩との応接折衝やとなりこの激動動乱の時期を乗り越えました。









この寬亭が最も活躍した時期というのは、藩の役職から解放され家督を息子多仲に護った明治4年(1871)以降です。

明治15年、第一回内国絵画共進会に「人物、鶴」という作品が入選したのは76歳の時、さらに、2年後の第二回内国絵画共進会で入選した第三区南宗派「仙女鷹追兎図」は、76歳の作品で、連続2回入選を果たし対外的に名声を高め、花鳥画と人物画を得意としていました。とくに鶴の絵は有名で「鶴の寛亭」と称されています。


齢80を超えてもその創作意欲は衰えず、明治22年、寛亭が83歳の時に自画像を描いています。

寛亭が没するのは85歳(明治24 年)ですので、最晩年に至ってもなお西洋画風を取り入れた新しい作風に挑戦するなど“老い”も退散するほどのその創作意欲には敬服いたします。

寬亭は、創作活動のかたわら門弟の育成にも努め、数多くの画人を輩出しています。








寛亭自身いろいろな画風の画を描いていますが、弟子たちにも自由に描かせていたようで「中村一門」は、民間の絵師として比較的自由な画風を繰り広げ、注文主の要望に応じて描き分ける三春領内における絵画職人集団であったようです。 

今に残る数多くの絵馬や農民に依頼されて描いた軸物などに、寛亭とその門人たちが築いた農民芸術を謳歌した文化意識の一端を垣間見ることができます。


蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 04:32 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |