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ガンバレ本宮! ガンバレ太郎丸!




先に三十七回忌を終えた母の里は、奥州街道本宮宿の太郎丸です。

マザコンなんでしょう、母の里というものは何か特別な感情があります。

出会った方が本宮出身だと聞くとついつい本宮話をしてしまいます。

子供の頃の話で盛り上がります。

安達太良神社の秋まつりで見世物小屋やサーカスを見に行ったこと。

第一回全国チンドン屋大会が本宮で開催されたこと。

町内の子供たちを引き連れて自転車で本宮へ行ったら、観音様の陰から近所の子供たちに「百姓~」「バカやろ~」などと”カラカワれた”等々・・・

本宮の女の子とのデートに観音様の裏を待ち合わせにしたこと・・・

今でも本宮に行くたびに、あの頃の楽しかった懐かしい思い出が脳裏を過ります。


その本宮宿が、今回の台風19号により阿武隈川が溢れ大水となってしまいました。

母の里も例外なく一階が胸のあたりまでの浸水となってしまいました。

34年前の8.5水害の時は腰のあたりだったと云いますから前回を上回る水害となってしまいました。



本宮宿は奥州街道と会津街道、三春街道、相馬街道の追分があり、交通の要所として発展してきた宿場町です。

その街並みは、阿武隈川支流である安達太良川を挟んで、江戸側(南側)の上町、中条、下町を「南町」、そして川の北側の荒町、中町、大町を「北町」と区分されていました。

その南町末が太郎丸という地域となります。


古くから「花の本宮」とうたわれ、奥州街道屈指の賑わいを見せた宿場で、天保9年(1838年)の記録では、旅籠30、茶屋12、銭湯6、酒屋12軒もあった記録されています。

飯盛り女の多い宿場としても知られ、井原西鶴の「好色一代男」や「一目玉鉾」にも登場してくる。

また、人形浄瑠璃にも「奥州街道の本宮なくば、何をたよりに奥がよい・・・」と謡われるほどであった。





阿武隈川が流れる宿場町「本宮」は洪水との闘いの歴史でした。

明治23年8月7日の 未曾有の大洪水。 流失戸数111個、潰家2千850棟 水田冠水/80町歩 畑冠水/20町歩 被害総額/22万1700円

明治29年、7月21日 大洪水
9月7日 洪水により八日大川両橋流失

同30年、8月10日~12日 洪水
9月8日・9日 洪水

同43年、8月11・12日 大雨洪水、本宮の三橋流失

大正2年、8月27日 大洪水本宮浸水500戸

同3年、8月30日 洪水 溺死者二名

昭和13年6月28日~30日 台風、洪水、郡山水位8m、雨量160mm
9月10日 台風、洪水、水位本宮7.1m

昭和16年(1941年) 7月21日~23日 大洪水、本宮護岸堤防上の牆壁を越えること22cm、明治23年大洪水より僅かに低く、被害甚大。被害戸数1136戸

昭和23年(1948年)9月13日 アイオン台風大豪雨、本宮警戒水位突破昭和十六年以来の大水

昭和61年(1986年) 8月 8・5集中豪雨(昭和16年以来の大水害)
阿武隈川水位/8.48メートル、総雨量/185ミリメートル、床上浸水/717棟、床下浸水/314棟、水田冠水/150ヘクタール、畑冠水/38.7ヘクタール等、被害総額/13億5千万円


本宮町史参照


本宮は、たびたび洪水に見舞われてきましたが、その都度宿場の皆さんで力を合わせて復興し発展を遂げてきました。


今回も片づけが一段落したら、復興へ向けて町民一丸となって全力で向かうでしょう!


ガンバレ本宮! ガンバレ太郎丸!



奥州街道本宮宿太郎丸


戦国時代に、まず北町を中心として宿場町が形成されます。

安達太良川以南一帯は荒れ地でしたが、新潟より会津に転封した上杉家の重臣直江兼続によってこの地を与えられた三春田村氏(田村仕置により改易)の旧臣小沼貞長が1608年に南町を造ります。

周辺の物資集散の中心地となっています。


旧国道を郡山方面から本宮宿に入るとすぐの地域は太郎丸とよばれています。


仮説ですが、その中心には「太郎丸観音堂」があり、江戸初期までは葦名氏の旧臣で伊達に組した太郎丸氏の館があったとされる場所です。

これが地名「太郎丸」の住所の由来となっていると推測しています。


太郎丸掃部は、会津葦名氏の家臣で、耶麻郡太郎丸村(喜多方市豊川町米室)を本拠とした氏族。

葦名氏の庶子で葦名一族だったと思われます。

 天正13年(1585)5月、太郎丸掃部は、関柴合戦が起こった際、同じ葦名家家臣の松本備中守が伊達政宗に内応していることから、政宗が占領している桧原への備えとして入田付村に派遣されるますが、太郎丸氏もそのまま政宗のもとへ奔って組したとして伊達勢に加わります。

天正13年(1585)11月17日、二本松城主畠山義継が、伊達政宗の父輝宗を拉致して両者とも死去した事件がきっかけで、伊達政宗勢7千と、佐竹・芦名・相馬・二階堂・岩城・石川・白川ら連合勢3万が激突した旧安達郡本宮の人取橋付近で起きた戦い「人取橋の戦い」が発生します。

政宗は父の初七日が明けると、正室愛姫の父三春城主田村清顕、輝宗の弔い合戦として加勢の要請を承諾していた相馬義胤とともに13,000の兵を率いて二本松城攻めを開始。

11月2日、二本松氏救援のため佐竹義重・義宣、会津城主蘆名亀王丸、須賀川城主二階堂阿南、岩城城主岩城常隆、石川城主石川昭光、白河城主白川義親・義広ら南奥諸大名が挙兵・派兵して集結。
畠山、佐竹、葦名の連合勢が前田沢南の原に終結すると、政宗は二本松城に備えを残し、自らは本宮城に入城。

そして11月17日、観音堂(太郎丸観音堂)に本陣を置き、前線の高倉、青田原に軍勢を配して、連合軍と対峙した。

時期から見てこの時には太郎丸氏は伊達勢に居て本陣となる観音堂との関りがあったのではないかと考えています






 
 
後に、太郎丸氏は天正17年(1589)「磨上原の戦い」に政宗麾下の武将として葦名氏と戦い、葦名氏の武将富田将監の隊に200人の鉄砲足軽を使って攻撃をかけ、葦名勢を苦しめたものの、将監によって討ち取られてしまいます。



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| ryuichi | 05:18 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春 日暮硯 |