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三春舞鶴通信 副編集長 、三春舞鶴ML会管理人の管野吉雄様から三春舞鶴通信ペン・リレー要請が届きました。



三春舞鶴通信 副編集長 、三春舞鶴ML会管理人の管野吉雄様から三春舞鶴通信ペン・リレー要請が届きました。①

下記の内容です。

三春昭進堂で月ごとに発行している情報誌の名は「塵壺」である。
幕末の越後長岡藩家老河井継之助の遊学旅日記「塵壺」から名つけたとのこと。
素晴らしい命名と感動しました。

お願い①

この命名(経緯、思い等)について、もう少し教えてください。







 三春昭進堂「塵壺」 越後長岡藩非門閥家老河井継之助

三春昭進堂で毎月、発行している新聞折込チラシに「塵壷」というものがあります。三春・船引・中田・西田等15000部の折込です。

私が家業を継いで平成3年から発行しているチラシで341号を迎えます。

このチラシは単にお菓子の宣伝に限らず、四季折々の「三春の行事」紹介や三春の寺社仏閣・三春藩時代の歴史の紹介そして仏教のお話など、「如是我聞」と題して、コラムを掲載する手作りのチラシです。

この「塵壷」という名前の由来は、幕末の長岡藩士河井継之助が、安政六年に越後長岡藩の富国強兵、そして財政建て直しを学ぶべく、備中松名付けていますが、「如是我聞」の取材を通じて人生の諸先輩方やお客様から様々な事柄を学ぼうという気持ちから名付けました。






私と継之助との出会いは昭和52年放送のNHK大河ドラマ「花神」でした。

司馬遼太郎原作の「花神」の中で、髙橋秀樹扮する長岡軍事総督河井継之助が、会津藩と薩長藩の間に入って調停を試みるというくだりがありました。
当時小学生だった私でも、田舎大名の家老風情が何を言っているのか?と疑問を持ってしまいました。





また、その世界情勢を見極めての発言や行動には感動したことを覚えていました。
さらには、その責任の取り方に「男」を見たような気がして以来です。






そして、平成元年に当三春昭進堂に就職して今後の方向性を模索していた時に、カネサン書店で司馬遼太郎著「峠」の上下巻との出会いが全ての始まりだったような気がします。

幕末の戊辰戦争で最大の激戦を繰り広げた北越戦争。田舎の小さな大名長岡藩牧野家、しかも一代限りの家老継之助が「永世中立」を唱え“会津と薩長の仲立ちをして平和解決を目指す”という壮大な計画を企みます。

その交渉の場である「小千谷談判」が決裂し平和解決が無理となるや当時世界レベルの軍事力にまで仕上げた長岡藩を率いて、徹底的に戦う姿に“カッコイイ大人”と思った
のが始まりです。





長岡は、戊辰戦争(北越戦争)では、軍事総督である非門別家老河井継之助の戦争の調停・回避・中立等の奮闘虚しく、戦争に巻き込まれ、敗戦国となります。

さらに、一時賊軍の汚名を着て長岡の歴史を語るのを憚られていた時期もあります。

後に、海軍の山本五十六大将(後に元帥)は、その汚名払拭の為にどれほど尽力したか計り知れません。

大平洋戦争直前に、郷里長岡中学での山本五十六の演説を聞きますと、その思いが伝わり胸が熱くなります。





昭和14年に山本五十六が母校の長岡高等学校で講演したときの言葉を紹介いたします。

私は諸君に対し銃をとって第一線に立てとは決して申しません。
あなた方に希望するところは学問を飽くまで静かな平らかな心を持って勉強し
将来発展の基礎をつくって頂きたいと熱望する次第であります。
どこまでも気を広く持ち高遠なる所に目標をおいて日本のため進んでくださいますようお願い申し上げます。 山本五十六

河井継之助も山本五十六も、結果的には戦争の最高責任者として敗戦を全て背負いこむことになりますが、その前段でどれだけその戦争を回避しようとしたか・・・
今を生きる、我々は忘れてはいけません。






奥会津の只見町には立派な河井継之助記念館があります。

 北越戦争で薩長等の西軍との戦いで奪われた長岡城を再度奪い返すなど約三カ月に亘り激戦を繰り返す中、継之助が足に銃弾を受け重傷を負ってしまいます。
軍事総督が倒れた長岡藩は、抵抗むなしく敗走となり長岡から”八十里峠”を越えて会津若松城下を目指す途中、この只見・塩沢の医師矢沢宗益宅で亡くなりました。






塩沢についた継之助は、追撃する西軍が迫る中、自身の死を悟り、下僕の松蔵に棺桶と薪を用意させ「自分の亡骸を西軍に渡して成らぬ・・・」と云い残し、燃え上がる薪を見つめながら息を引き取ったと小説「峠」では締めくくられています。

30年位前に私が初めて訪れた時には、まだ矢沢医師の子孫である強面のおじいさんが、只見ダム建設に伴う川増幅移転の際に「河井継之助終焉の間」を自宅横に移築して細々と個人記念館として開館していました。

遺品や説明のパネルが並ぶその「終焉の間」は、小説「峠」に在る河井の終焉の場面で、“矢沢宅の隠居で、天上を眺めていた・・・涙が一筋~”という下りを真似して、ちょっと横になったらそのまま寝てしまい、矢沢さんに夕食をごちそうになった事が思い出されます。






冬です。
毎年のことですが、雪の片づけをしていると司馬遼太郎の小説「峠」の一節を思い出します。

幕末の越後長岡藩牧野家の家老河井継之助を描いたその「峠」の中に,「雪が来る」そして「北国は損だ」という言葉が出てきます。

私も、北国に住む者として、司馬作品の中でも最高の文章表現だと思っている箇所の一つです。
さらに続きます。
・・・・北国では町中こうまで働いても、たかが雪をよけるだけのことであり、それによって一文の得にもならない。
が、この城下のひとびとは、深海の魚がことさらに水圧を感じないように、その自然の圧力のなかでにぎにぎしく生きている。
・・・・(北国の人々は)鈍重で、折れ釘や石ころを呑めといわれればのんでしまう連中だ。のむ前はさすがにつらい。
つい大酒をくらう。大酒で勢いをつけ、唄でもうたって騒ぎ、いざのみこんでしまっては、ぼろぼろ涙をながしている。

これは、長岡だけではなく、北国の城下町に住む方々の独特な感覚でしょう。
正に的を得た表現だと思っています。







「峠 最後のサムライ」 越後長岡藩河井継之助
 幕末の風雲児と呼ばれた越後長岡藩(現新潟県長岡市)軍事総督・非門別家老河井継之助を題材にした司馬遼太郎氏の名作小説「峠」が「峠・最後のサムライ」のタイトルで映画化されます。監督は小泉堯史氏、2020年に全国公開。

河井継之助役には役所広司、妻・おすが役には松たか子、その他田中泯、香川京子、佐々木蔵之介、仲代達矢ら豪華キャストが出演します。

「峠 最後のサムライ」物語の舞台は、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜による大政奉還も奏上され、260年余りに及んだ江戸時代が終焉を迎えた幕末。
越後の譜代大名長岡藩牧野家は、継之助の指揮のもと藩行財政改革を断行して借財の返済、そして藩費貯蓄の増加を計ります。






また、当時世界で3門しかなかった最新鋭の「ガットリング砲(機関砲)」そして、元込式標準器付きの螺旋銃 「エンフィールド銃」等、世界でも類を見ない武器と調練によって最強の精鋭部隊を組織していました。

その武力を背景に内戦の無意味さを訴え永久武装中立を主張、そして戦争回避のために薩長土肥を中心とする西軍と会津藩を中心とする東軍の停戦調停の仲立ちを企てます。

しかし、東西両軍からの各種妨害工作によって結果的には東軍に加盟し西軍と対抗する道を選んだ継之助の生涯を通じて“「サムライ」=日本人の生き方”“リーダーとしてのあるべき姿”を問いかけるという作品です。

 この幕末明治初頭の混乱期、内戦の無益さと欧米列強の内政干渉による危機感、そして、国益損失を政治的に考えられたのは勝海舟と継之助だけだといわれています。

継之助は、独自の近代的な発想とその先見性をもって戊辰・明治の混乱が終わるまでは長岡藩七万四千石を、欧州におけるスイス国のように一つの中立国家として独立することを目指していました。





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:28 | comments (x) | trackback (x) | 三春舞鶴会 |