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塵壺342号 「明智光秀と三春藩別格宿老(家老)荒木氏」




塵壺342号 「明智光秀と三春藩別格宿老(家老)荒木氏」 令和二年

2020年、戦国武将明智光秀の生涯を描くNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」が放送されます。
主役明智光秀を長谷川博己さん、木下藤吉郎(豊臣・羽柴秀吉)を佐々木蔵之介さん、そして、語りを市川海老蔵さんが担当しています。

明智光秀といえば、本能寺にて主君である織田信長を討った謀反人であり、中国大返しで戻った羽柴秀吉に天王山・山崎にて敗北して“三日天下”と嘲られるなど、不名誉なイメージが強く残りますが、領地である丹波三十五万石では、京都府亀岡市や福知山市における城下町の整備や明智藪 (堤防)と呼ばれる治水工事は高く評価され、現代でも“亀岡光秀まつり”や“福知山御霊大祭”など、光秀ゆかりの祭りが行われ、領民に尊敬され、いかに慕われていた領主だったかがうかがえます。






この明智光秀と三春藩秋田氏との関りをご存じですか?

三春藩秋田氏の別格家老として細川氏と共に「御両家」と呼ばれた荒木氏の祖は明智光秀の家臣となっていた時期があります。

この荒木氏の祖とされる荒木山城守氏綱(氏香とも)は、丹波の盟主的な存在の波多野氏の家臣として「波多野氏旗頭七人衆」の一人と称され、丹波国多紀郡の細工所城主で“丹波の荒木鬼”と言われるぐらい勇猛な武将で、篠山の北方に位置する園部城も支配下におく丹波の有力者でした。

江戸幕府が寛政年間に編集した大名や旗本の家譜集「寛政重修諸家譜」には、利休十哲の一人荒木摂津守村重(信長に仕えたが後に裏切った)の叔父と記されていますが出自に関しては諸説ありです。

後に、織田信長の命を受けた明智光秀が丹波に攻め込んできた際、荒木氏綱勢は、織田・明智勢を何度も撃退しています。

天正7年(1579年)、盟主である波多野秀治が織田・明智勢に捕えられて処刑されると氏綱は明智光秀に降伏します。
光秀は氏綱の武勇を惜しみ家臣として仕えるよう要請しますが、氏綱自身は病身を理由に断り、代わりに嫡男・氏清を明智家へ出仕させています。

本能寺の変後に起こった「天王山・山崎の合戦」では明智勢に丹波衆として参戦し氏綱とその子高兼(次男)は討死します。






初代三春藩主の俊季公の父秋田実季公の正妻は、徳川2代将軍秀忠夫人の崇源院とは従姉妹にあたる元室町幕府管領家の細川右京太夫昭元と織田信長の妹・お犬との間に生まれた円光院です。

 そして、実季公の側室筆頭である「瑞峰院」は、前記の三春藩秋田氏別格家老の荒木家の出身です。
瑞峰院は、正室である円光院の侍女でしたが、実季の寵愛を受けるようになり、側室として、お国、季次、季則をもうけます。

この縁で瑞峰院の実家である荒木家の当主・高次(瑞峯院の兄弟)が、秋田家に三百石で取り立てられます。さらに、高次の子高綱は、実季と瑞峯院の間に生まれた娘を妻として迎え、この高綱の息子高宅は、実季の弟である若狭小浜藩主酒井家の家老安倍英季の娘を嫁に迎えており、その子高村は英季の孫娘を妻としているなど主家である秋田氏との縁戚を深めて行きました。






こうしたご縁から高綱以降三春藩内にて秋田・宍戸由来の古参重臣を差し置いて別格の宿老として荒木氏の地位が上がっていきます。

後の三春藩4代藩主・秋田頼季は、荒木高村の嫡男であり、先藩主輝季公の養子となって秋田家の跡を継ぎました。






   さすけねぇぞい三春  拝   蒼龍謹白  


| ryuichi | 04:58 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |