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塵壺343号 三春城下の成り立ち 「新町の巻」 2020.2





三春城下の成り立ち 「新町の巻」

 三春城下の成り立ちは、室町後期の永正元年(1504年)に田村義顕が守山城から移り現在の場所に三春城を築城したのが始まりと言われ、初代義顕、2代隆顕、3代清顕の三世代が三春領を治めます。それ以後三春城の改修や、城下の町割りそして寺社の建設が進みました。
 
義顕の三春城築城時に城を中心として北方位を北町、南方位を南町とします。

現荒町は築城の町割りの時に新設した町ということで新町(あらまち)としました。

 中町と下大町は、後の蒲生代官時代に新設されています。

秋田氏三春入り翌年の正保3年(1646年)には、城下町内の地名として、大町、中町、八幡町、荒町、北町、新町の「六町」を定めました。



 現新町は当初足軽町と呼ばれていましたが、松下公三春入城以後「新南町」と称し、さらに下って秋田公時代に「新町(しんまち)」と明記されています。
 
天正19年、豊臣秀吉によって断行された奥羽の大名の再編成である「奥州仕置き」によって、田村家は改易され仙台藩に統合されれると、三春領は蒲生氏郷の会津藩の一部となります。

 会津藩主は、氏郷の死後、上杉景勝、再び蒲生秀行・忠郷と変わり、三春を預かる城代も交代しました。後に蒲生忠郷が病死すると、蒲生家は改易となります。

 江戸将軍3代家光の時代、寛永4年(1627年)加藤嘉明が会津領に入ると、三春領3万石は嘉明の次男明利に与えられます。

 翌年には明利は二本松10万石に移され、代わって松下長綱が入部します。
しかし、正保元年に松下長綱が死ぬと嗣子がなかったために松下家は断絶、その後1年間ほど幕領でしたが、翌正保2年、常陸宍戸から秋田氏が入部し明治維新まで三春を治めます。






 当店がございます三春城下新町の歴史的背景と成り立ちといたしましては、寛永5年に「松下氏」が三春城主になり、17年の間三春領内を治めます。

 松下氏は城の普請にも力を入れ、三春城の一番荘厳期、町割りでは現在の新町は『足軽町』といわれていました。

その後、新南町と変わり、江戸後期の秋田藩藩政下で現在の「新町」となりました。

 新町は、山中(明王町)、新町、弓町、清水、入清水等を総称して、新町と記されています。

 山中は「明王町」とも呼ばれ、その地名は、田村清顕が、天正年間に磐城守山郷にあった大元帥明王社(現田村大元神社)を三春本城二の丸に遷宮した折に、同社の鎮座してあった守山郷の地名「山中」をそのまま呼ばせたのに始まっているようです。

 大元帥明王社は三春秋田藩五万石総鎮守で、旧藩時代までは旧暦の6月14日から3日間の祭典が行われ、三春領六十六郷が当屋番にて三春藩5万石領を挙げて執行されていました。






 山中から清水にかけては侍屋敷、新町は商家・修験・足軽(半農)と区分された形でした。新町末には、化粧坂(庚申坂)があり正徳の六地蔵の一体が鎮座しています。

 真照寺、州伝寺、天沢寺(松下時代以降に会下谷より移転)も昔のまま、真照寺の古四王堂毘沙門天、州伝寺の一時地蔵尊、天沢寺の身代り地蔵尊、それぞれの緑日の祭りが賑やかだったと伝わっています。

 家畜セリ場は、藩政時代から馬市、そして牛市で栄えたが今はありません。また、三春駒の名と共に、江戸時代から昭和31年5月24日に発令された「売春防止法」の実施まで、長期に亘って繁昌した色街旧庚申坂、そして、弓町新地新庚申坂は見る影もなく、僅かに残る格子戸に昔の面影をしのばせています。

清水は、入清水から清水末まで藩政時代には大小の家中屋敷跡が並んでいました。

 清水末にはかつての町営プールのある処(現作業所でんでんむし駐車場)は、明治の初め頃までは、田村産馬組合が創立事務所を置いた場所で、目の前の直線道路は「田村馬場」として再整備されていました。

   蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春  拝


| ryuichi | 05:05 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |