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塵壺344号 令和2年3月発行  「佐久間庸軒旅日記」安政5年戊午  
 



 塵壺344号 令和2年3月発行  「佐久間庸軒旅日記」安政5年戊午  
 
塵壺の参考にと、佐久間庸軒に関する資料を届けていただきました。

主人公の佐久間庸軒は、江戸時代後期から明治時代にかけて活やくした最上流和算家で三春藩士です。
文政2年(1819)田村郡石森町(田村市石森)に生まれ、本名を纉(つづき)といいます。

 江戸末期の天保7年(1836)、18歳で二本松藩の最上(さいじょう)流和算家渡辺治右衛門に入門し、和算の研鑽の旅を続け、嘉永7年(1854)に研究成果を「当用算法」や「算法起源集」など著書も多く記してあります。
 佐久間派の開祖として三春藩藩校「講所」で算学を教え、新政府の絵図編纂御用も勤めています。

維新後には、石森の自宅で私塾「庸軒塾」を開いて農民や町民に 明治算術や算学測量を教えています。
 その門弟は実に2000名を数えます。

 江戸時代に発達した日本独自の数学が和算(わさん)です。
 庸軒が活躍した幕末から明治初期にかけての時代、和算はブームとなり、全国各地で上層階級から庶民へと広がっていきました。

 日本ではすでに奈良平安の頃には中国から数学が導入されましたが盛んにはなりませんでした。
 その後、室町末期の戦国時代から江戸時代初期にかけて、戦国武将などの築城に伴う土木普請や太閤検地、さらには経済の発展などにより計算が必要となり、中国の算書(さんしょ)の影響をもとにした和算が発達したと考えられています。

 一昨年前、三春まちづくり公社で「三春町内神社仏閣の算額巡り&和算遊び手習い」を開催していましたのでご存じの方も多いと思います。

 三春藩領内の神社仏閣には、難問を解いた算額、問題だけ載った算額などが奉納されていますが、和算を志す数学者や数学愛好家は、難問を解くことに成功すると、神社や寺に算額を奉納するようになりました。
 これは、問題が解けたことを神仏に感謝し、自分の業績を世に知らしめるためでもありました。
 また、和算好きはそれらの算額を見て回り、難問に挑戦しては腕を磨き、時には他の和算者に向けて問題だけを書いた算額を奉納して、和算対決の様相を呈していたこともあったようです。

 佐久間庸軒の数度にわたる旅日記は、遊歴の算術家として江戸末期の日本各地を旅して算学をひろめ、最上流和算を作り上げた時の修行旅日記です。

 天保十三年(1842)の庸軒路程記1~6は参詣に重きを置き、安政五年(1858)の九州辺天草の旅の九州遍路1~6は算術修行に重きを置いているようです。

 庸軒などの「遊歴の算家」は、全国を旅して周り行く先々で数学者と問答を行っています。地方に高名な数学者が訪れたと聞けば、地元の算術好きが列をなして教えを請い、臨時の数学塾が開講されていたようです。
 庸軒の九州遍路行では訪問した算術家は34名(内31名は印鑑を押捺)に上っています。

 安政5年戊午に記された佐久間庸軒旅日記では、三春を発ち、江戸・箱根・桑名・伊勢・京都・岡山・山陰津和野・博多・長崎・本渡・熊本・宮島・信州善光寺・日光経由三春という行程での算術修行です。
一部船旅もありますが、もちろん9割以上が徒歩の旅路です。
 
全国津々浦々を旅する遊歴算家の活躍によって、和算ブームは草の根の広がりを見せて日本の隅々まで高度な数学が広まっていき日本独自の数学・算術である和算文化を築き上げていきました。

      蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝







「佐久間庸軒旅日記」 船引町文化財集7 船引町教育委員会平成2年七月発行参照




| ryuichi | 05:24 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |