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塵壺 第349号 「 三春城下郊外「洞」 三春田村氏と田村武士団」 令和2年8月発行



  
三春城下郊外「洞」 三春田村氏と田村武士団



田植えを終える目安とされる「半夏生(はんげしょうず)」の頃、三春城下在の各地の集落入口付近で、細竹の先に「御札」を括り付けて村境付近に建てられているのを目にします。


これは「五穀豊穣」と「村内の安全」を祈願して「夏越の祓(なごしのみそぎ)」として神主さんに「辻切り」の御祈祷を受けた「御札」を、村の入口の「辻」と呼ばれる道の交差するところ、特に鬼門(東北)や裏鬼門(南西)の方角に立てて村外からの疫病などの災厄(さいやく)が、村内に侵入するのを防いでいるものです。


この御札には「楽内熊野神社」「込木見渡神社」等の鎮守名と「御祈祷 神璽(ごきとうしんじ)」と共に「村内安全」ではなく「洞内安全」と記載されています。





楽内洞、込木洞…この洞(うつろ・ほら)とは、室町期以降の東国の武士、地侍の一族郎党が所領する集落を指しています。

田村地方でも、三春城主田村氏一族以外の配下・合力・与力の「武士団」形態で、旧田村領田村六十六郷(田村庄)と小野六郷(小野保)福原村で構成され、地侍・惣領である当主を中心にした田村武士団一族郎党の総称です。米田村三代清顕公の最盛期には、安積郡や安達郷、岩瀬(石背)郡、石川郷などの一部が含まれ10万石以上で131ヶ村。江戸期の秋田藩政下では81ヶ村。







「農兵分離」が確立する前の中世武士団の所領とは、先祖代々伝わっている田畑・山林、屋敷など「命をかけても守るべき生活の基盤」との考え方が残っていました。
 また、洞は武家政権による力関係で国主・盟主の配下として合力・与力する一つの武士団というくくりで、後の江戸幕藩体制の確立に基づく近世大名における「家中」、家臣という位置づけです。


 戦国時代の仙道(今の福島県中通り地方附近)は、中小の戦国武将・地侍がひしめく激戦区で、三春田村氏も、伊達(米沢)・蘆名(会津)・畠山(二本松)・大内(小浜塩松)・二階堂(須賀川)・相馬氏(小高)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(平)など、周囲を敵に囲まれ、長年にわたり四面楚歌の状態が続いていました。






 三春田村家は、相馬氏、伊達氏と連携を図りながら、その状況下の中で、三春田村武士団の惣領として、一族や直臣、そして田村「洞」中の領主連合を形成して、戦国乱世を生き抜いていたと考えています。

 後に、豊臣秀吉の「奥羽仕置」に連座する「田村仕置」にて三春田村家は改易となり伊達家へ吸収されますが、秀吉からの旧田村領授領を辞退した伊達重臣片倉小十郎、豊臣政権五奉行の浅野長政らの計らいもあり、「内分分家大名」として田村家は伊達家の中で吸収・存続となります。

しかし、この時代はまだ地方での「農兵分離」が進んでおらず、大多数を占める旧田村家の家臣達は、先祖伝来の土地から離れるのを嫌い、さらに田村家の存続をできなかった伊達家を頼らずに田村領内の自分の所領にて帰農します。

 また、伊達家(白石片倉家)へ移籍した田村本家である牛縊(田村)宗顕はじめ、橋本氏、御代田氏、田母神氏、中津川氏、郡司氏等々、旧重臣11家(分家下士合計28家)も一族郎党の一部を旧田村領に残しています。









 時代が下り、蒲生氏、上杉氏、松下氏、そして江戸期の秋田氏と三春領主が替わっても三春田村氏の旧臣として「在郷給人」として「苗字帯刀」「御目見得」を許された大庄屋(割頭)・名主を代々務めて、明治維新を迎えます。


 尚、洞組織を集落として残したまま帰農した田村旧臣は武勇に富み、その家門を賞して「御屋形様」と呼ばれていました。

 現在でも、洞の形態が残っている例として、芦沢(現田村市芦沢)に鎮座する白山比咩(ハクサンヒメ)神社の例大祭に奉納される「芦沢の八ツ頭獅子舞」は、旧芦沢村の屋形洞、中洞、本郷洞、柏原洞、南洞、鞍掛洞、山田洞、横土洞の8洞(組)で獅子舞を今に伝えています。








     蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 03:45 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |