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三春物語156番 「三春大神宮例大祭」
 

「三春大神宮例大祭」
  神明宮・天照御霊神社(三春大神宮)は、江戸中期、三春藩三代藩主秋田輝季公が、生母正寿院が信仰する神明宮を、貝山岩田より現在の地、神垣山に還宮して三春藩の藩社としました。
幕末徳川幕府が崩れ去り、明治維新、廃藩置県、神仏離反・廃仏毀釈という歴史の転換期の中で、三春大神宮とその祭礼も大変革を遂げました。
明治維新後は、明治新政府の布令により、三春藩庁は明治四年に三春藩との係わりや仏教色の濃い大元師明王社を取り止め、天照皇大御神・豊宇毘売大神を祀る三春神明宮を伊勢神宮と祭主が同じとして、三春領内の鎮守として現在の三春大神宮例大祭の原型が創られました(縣社社格取得は明治三十二年)。
三春大神宮としての祭礼は、明治四年の三春藩庁の布令により、旧領内総鎮守大元帥明王社の祭礼を模して、九月十五日から十七日を祭日として挙行されたのが始まりとされています。(三春町史3近代1参照)
祭礼の御神輿渡御は、大元師明王社を模して挙行され、先祓いを勤める長獅子は、荒町天王様の「荒獅子」が勤めていましたが、明治初年に大元師明王社の祭礼でいざこざを起こし、奉納取り止めになったのをきっかけに、新町と八幡町の若衆が、荒獅子を真似て長獅子を造り、それぞれ新町では田村大元神社、八幡町では八幡神社で奉納するようになります、それに伴って三春大神宮の祭礼でも、荒町・新町・八幡町の順番にて三年交代での奉納が決まりましたが、初めての八幡町長獅子の当番時に、神社総代とイザコザを起こし、それから現在の荒町・新町の長獅子による、隔年交代となりました。
三匹獅子は、大元帥明王社の三匹獅子が勤め上げ、その歴史は古く神明宮遷宮時より、御神輿に供奉していましたが、太平洋戦争末期の祭礼中止により取り止めになりました。
各字よりの御神輿渡行・還御の供奉に付いては、江戸期は、各町内の町役員が裃姿で高張り堤燈を持って供奉していましたが、明治中ごろからは、各字役員と各字隣組組長も、堤燈持参で行列に加わり、それに付随して、中町・大町・新町の山車が随行したと考えられます。

蒼龍謹白・・・・・・・・・・・・合掌


新町睦会花車 

三春大神宮祭礼
明治末より昭和初期にかけて、三春では、繭・葉煙草や農耕・軍による三春産馬などの売買が盛んになり、その好景気で大店が羽振りを利かせ、二階の座敷にお客さんを招き、各字山車では、舞台の高さを大店の二階に合わせて建造し、渡り芸人を招き、その芸を披露したり、芸者を引き連れての興行となり、近郷近在より大勢の祭り見物客が三春に来町したと言われます。
各字若連の樽神輿奉納については、昭和の初め頃に、大日本帝国内務省より創設された「神祇院」からの、国家神道による国民精神教化と思想統制が行われ、その一環として子供神輿が供奉するようになりました。
太平洋戦争敗戦後、ポツダム宣言・GHQの命令により、大正期より軍部により歪められていた、日本国民と神社との係わりが見直され、「神祇院」「国弊社」など国家神道・神社運営の解体にともなって、三春大神宮の祭事が禁止され、祭礼も中途絶えていましたが、GHQの命令(昭和20年代初め)によって、国有地であった神社境内地の払い下げを三春町が受けたのを期に、三春大神宮祭礼復興兆しが見え始め(昭和30年代)、十月一日から三日(御神輿渡御は、還御荒町御出立の一日と新町御出立の三日の二日間で両日とも長獅子が先祓い)を祭礼として、自然増殖的に始まりました。そして昭和30年末から昭和40年代の初めにかけて、日本経済の高度成長期と重なって、各字で若連会が組織されて御神輿還御の時に、各若連の樽神輿の奉納を行ったのではないかと考えられます。
現在は、十月の第一金土日を祭礼として挙行され、最終日には長獅子(荒町・新町隔年交代)を先祓いに御神輿渡行が行われています。
還御も長獅子の担当と同じくして、荒町八雲神社御出立と新町字事務所御出立と隔年交代で行われ、青白天狗・長獅子・御神輿・宮司神官・神社総代、各町神社総代・各字委員・沢石三匹獅子が続き・宮下小若連を先頭にして八町の子供神輿と・新町睦会・中町若連・大町若連・八幡町若連・北町若連による五町の大人神輿、そして新町睦会・中町若連・荒町小若連の山車が御神輿還御に供奉されています。
以上・三春大神宮例大祭の遍歴を、三春町史参照と、各字長老の方々より聞き取りにより書き留めましたが、明治末の三春大神宮裏山土砂崩れで、資料となる多くの文献が土砂に流され紛失した事と、戦前の大日本帝国軍部による神道国家路線による神社統制が三春大神宮では顕著だった為に、敗戦後資料の処分が多分に行われたことが想像され、現存する資料が少ないのが現状です。
                     蒼龍謹白・・・・・・・・・合掌




中町若連 昭和初期山車


| ryuichi | 21:49 | comments (0) | trackback (x) | 藩社神明社(三春大神宮)::秋季例大祭・三春若連連合会 |
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