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塵壺351号 令和2年10月発行  三春城下中町愛宕社(現愛宕神社)別当庚申跡の地蔵改修供養




塵壺351号 令和2年10月発行

三春城下中町愛宕社(現愛宕神社)別当庚申跡の地蔵改修供養
 
中町の愛宕神社山内への参道中腹、旧中町児童公園跡に朽ち果てた姿のお地蔵様があります。
 先ごろその補修が、有志の方々によって行われました。
 
このお地蔵様は、愛宕社別当の庚申(大光寺?)があった場所にあり、明治維新後の廃仏毀釈の際に、頭を割り落とされて放置されていましたが、このたび約150年ぶりに修復され元のお姿にもどりました。
 澄んだ秋空の下、眼下には御城山、城下を一望しながら修復に携わった有志一同で線香をあげ手を合わせて供養いたしました。






 

愛宕神社の由来は、戦国末期の慶長十八年、三春領が会津領(会津城主蒲生氏郷)だった頃、三春城代蒲生郷治が、三春鎮護と火伏せ等を祈念して、京都嵯峨野にある愛宕社総社の阿多古神社から火の神様とされる「迦具槌命」と戦勝の神「将軍地蔵尊」を分霊して、京に習い、三春城から西方の現在地に愛宕山地蔵堂「愛宕堂」を建立して祀ったことが社伝として伝わっています。







 以後、愛宕堂は別当(寺社の管理者)である、庚申や西福寺・大光寺には代々法印様と呼ばれる修験者が居住してご祭神を守護してきました。
 本殿は、神仏習合の名残から「奥院」と称され、勧請時のご本尊「愛宕将軍地蔵」が、秘仏として二重の桐の木箱に納められていますが、箱書きには「愛宕山 本地秘仏 国家安穏 将軍地蔵尊」と記されてあります。

 古来より「将軍地蔵尊」を念ずれば競合に打ち勝ち、あるいは貧窮から救ってくれるといわれ三春城下の人々の信仰を集めてきました。







 明治維新後には、この勝軍地蔵尊像は、新町の真照寺に納められたと記録されていますが、愛宕社勧請の時に祀られたとみられる勝軍地蔵尊の小さな木像が現愛宕神社に残されています。






尚、現愛宕神社の本殿(奥院)は、戦前まで三春小学校にあった「奉安殿」を移築したものです。


 別当の一つ愛宕社(現愛宕神社)別当西福寺跡は、愛宕神社から一段下の南東面に位置する平場にお堂(堂字)がありました。






 宗派は真言宗系で愛宕社の別当寺院であったと伝わっていますので、愛宕社成立と共に建立されたと思われますが、江戸時代後期には無住寺となりました。

近年まで山裾には墓地が残っていましたが、現在は本堂も墓地も残されておらず、「西福寺第三」の銘がある地蔵一体が残るのみです。また、旧墓地の土手の斜面に石仏の残欠が残っていたとも伝わっています。

 愛宕地蔵関連の資料を見ますと、三春城下清水天澤寺付近にある地名「天狗谷」の記載もあります。

 ”天狗谷”とよんでいますが、正式な地名ではありません。元々修験の行者が管理する愛宕将軍地蔵尊を祀ったお堂があった場所とされています。
 約350年前、江戸期の三春城主秋田家が宍戸より三春へ移封の際に、愛宕地蔵堂を城下中町へ移築し、秋田より移設した古四王堂(後に真照寺山内へ移築)の御借屋があった場所でした。







 三春城下には数多くの寺社仏閣があり、祭礼、縁日はもちろん草刈りや掃除・補修等々地域の方々によってそれぞれを守り伝えてきました。
 
また、路傍にある石碑やお地蔵様も含めたこれらの歴史的文化遺産は、人々の信仰の対象であるとともに、歴史的構造物というだけではなく、それぞれの地域に根ざした文化として価値を持ち、郷土への誇りや愛着を深め古来より地域住民のよりどころ、地域のコミュニティの場として機能してきました。

 正に、これらは歴史を背景に、生活との関わりの中で生み出され、現在まで守り伝えられてきた町の財産だと思います。







 さらには、将来を担う子どもたちが地域の伝統と文化に関心や理解を深め、尊重する姿勢を育むことは、豊かな人間性や国際社会に生きる日本人としての意識を形成する上でも大切なことなんだろうと考えています。











     蒼龍謹白  さすねけぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 04:37 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |