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三春物語179 番「元寇と亀井浄土宗正覚山光岩寺」
   元寇と亀井浄土宗正覚山光岩寺
文永八年、世界帝国を築き上げた、元のフビライが、三万数千の兵と、九百余の艦船をもって九州北部に来襲した。いわゆる元寇文永の役である。時の鎌倉幕府執権、北条時宗は、大宰府の小弐景資を総司令官とし、西国の御家人を迎撃にあたらせました。
一時は上陸を許したが迎撃に向かった御家人の奮戦と、九州地方特有の台風により、元・高麗連合軍を何とか撃退しました。
 当時、鎌倉幕府、いや日本にとって元寇はまさに国難「国家存亡の秋」でした、この文永の役の後、元が幕府に降伏を勧める使者を送ったが、その使者を時宗は鎌倉竜の口で切り捨てます。時宗は、再度の来襲は避けられない、又、戦うなら早い方が沿岸警備の労力や費用が削減できると考えると共に騎馬民族である元が渡海作戦で日本を従服できるはずは無いと見ていたが、元の使者を斬る事により、浮き足立つ御家人に、戦意を固めさせこの国難をのりきろうとした、まさに「背水の陣」であります。
  二度目来襲、弘安の役は、軍備・戦意共に整い、鎌倉武士団が奮戦し、上陸を許さず、又、台風発生により、元・高麗連合軍の大半が上陸前に海の藻屑と消え、世界征服を企む元に鎌倉武士団が、勇敢にその侵略に立ち向かい、日本を守り抜きました。
現代に生きる私たちも、この快挙を胸に刻み、外国へ、へつらうのではなく、自信を持って国際社会に乗り出したいものです。
亀井・正覚山光岩寺は、三春城主松下長綱が生母の菩提を弔う為に建立した浄土宗の寺ですが、江戸期に二度の大火に遭い、御本尊の阿弥陀如来立像は、その時の損傷で継ぎ目が分離して胎内から多くの銘文が発見されました。
この御本尊の阿弥陀如来立像は、弘安三年(1280年)に肥後の国(現熊本県)宇土の豪族得万太郎が、京都で造らせ郷里宇土の寺に収めた仏像で、胎内に「敵国調伏」「鎮護国家」の文字が見られます、どのような経緯でこの阿弥陀如来坐像が遠く離れた、奥州の三春光岩寺に着たかは定かではありません。
これは町史によれば、元寇・文永の役の後、再襲来必至とみた幕府は、防備を固めると共に、全国の寺社で鎮護国家・敵国調伏の修法が行われ、盛んに造仏が行われた時の一体とみられます。

          合掌




| ryuichi | 22:15 | comments (0) | trackback (x) | 三春城主 松下氏 |
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