2021-12-04 Sat
富澤 小社 宮代神社 御由緒調査書 社掌 飛田昭辰
祭神 後醍醐天皇 後村上天皇(義良親王) 陸奥宮(大塔宮・護良親王)
宮代神社鎮坐由緒の儀は、延元年中富沢伊賀が、国主北畠顕家公(南朝従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍)に従って、上洛して建武の合戦に従軍するも、勤王官軍(南朝方)敗亡し、富沢伊賀は古里に帰り旧富沢村字宮ノ下百二十五番地に天皇を祀ると伝わっている。
明治三十五年十二月 社掌 飛田昭辰(宸)

陸奥宮、護良親王は、後醍醐天皇の皇子で、延暦寺の天台座主をしていたことがあり「大塔宮」と呼ばれました。
後醍醐天皇による鎌倉幕府に対する政変「元弘の乱」が起こると、還俗して天皇に加勢します。
北条に対する足利尊氏の寝返りにより、後醍醐天皇による「建武の新政」が成立しますと、護良親王はその軍功により軍功により征夷大将軍になります。
しかし、護良親王は、その後、「新政」に不満な武士層の信望を集め力をつけてきた足利尊氏と対立したため、拘禁され、鎌倉の足利直義(ただよし)(尊氏の弟)に送られ、東光寺(現在の鎌倉宮)へ幽閉されてしまいます。
本殿裏手に護良親王が幽閉されたと伝わる土牢があります。
1335年中先代の乱で、鎌倉幕府滅亡時の執権北条高時の遺児、時行が挙兵して鎌倉に攻め込むと、逃げる足利直義側の武将に護良親王は殺されます。
北条時行が、護良親王を鎌倉将軍として担ぐことを恐れたからです。
「中先代之乱」では、敗走した直義に尊氏が加勢し、時行を撃退しますが、これを機に、醐天皇の建武政権から足利尊氏が離反することになり、建武政権は崩壊します。
足利尊氏と弟の直義は、中先代の乱に続けて、新田義貞や楠木正成と戦う中で、室町政権を成立させていきました。
後醍醐天皇の皇子には下記の八皇子がいて、中先代の乱で敗れた北条時行は、その後も南朝に加わり宗良親王(むねよし)や、義良親王(後村上天皇)と共に尊氏と戦っています。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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