2009-06-22 Mon
棚織神社
三春大神宮境内にある棚織神社は、機神様とよばれ、信仰を集めています。
もともとは、三春織物関係者の勧請により、社殿を造成し、共同でその祭祀にあたっていました。
江戸秋田藩政時代、「三春織」という機を織っていた人々が、三春の機の繁栄を願い、機織の神様として「拷幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)」をまつったことが始まりと言われています。
その後、「棚織大明神」という名をいただき「棚織神社」と呼ばれるようになりました。
かつての三春糸偏産業(繊維産業)の盛んだった頃の名残を残す守り神です。
日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説は『古事記』に記されており、村の災厄を除いてもらうため、水辺で神の衣を織り、神の一夜妻となるため機屋で神の降臨を待つ棚機津女という巫女の伝説です。
「たなばた」の語源はこの巫女に因みます。
日本では奈良時代に節気の行事として宮中にて行われていました。
また、萬葉集では大伴家持の歌「棚機の今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年はながけむ」など七夕に纏わる歌が存在します。
本来、宮中行事でしたが、織姫が織物などの女子の手習い事などに長けていたため、江戸時代に手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がりました。
「七夕」は日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(現在のお盆)に中国から伝来した乞巧奠(きこうでん)などが習合したものと考えられています。
もともと盆行事の一部が独立した行事として、行われるようになったと言われています。
笹は精霊(祖先の霊)が宿る依代が起源だと考えられています。
織女や牽牛という星の名称は 春秋戦国時代の『詩経』が初出とされています。
七夕伝説は、漢の時代に編纂された『文選』の中の『古詩十九編』が文献として初出とされており、南北朝時代の『荊楚歳時記』、その他『史記』等の中にも記述があります。
その傍らにある、三春藩柔術指南加藤木直親先生の碑です。
神垣山三春大神宮の鶏舎跡地の碑です。
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