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塵壺369号 「三春舞鶴城2022 バーチャルリアリティー(VR)映像」 2022.4発行




三春滝桜天然記念物指定100周年記念



塵壺369号 「三春舞鶴城2022 バーチャルリアリティー(VR)映像」 2022.4発行


昨今の「城郭」ブームの中、三春城や城下町の往年の姿(江戸期三春城主秋田氏時代)を仮想空間で復元した「三春舞鶴城バーチャルリアリティー(VR)映像」が完成し、登城された皆様を難攻不落と謳われた在りし日の「三春城(舞鶴城)」へ案内します。

 この「三春城VR映像」は、江戸時代の「三春城下御越し絵図」が基になっており、事前にお持ちのスマートフォンに専用アプリ「ストリートミュージアム」(無料)をインストールして「三春城及びその周辺」の現地に足を運んでいただき、アプリに示された指定のポイントでカメラを向けますと、三春城の全景(俯瞰)、三春城本丸・表門内、御殿前、 裏門外、大町四つ角等々の当時の姿画像が見られるという仕組みです。






三春城は、500余年前となる戦国時代に、現在の三春町の中心部にある大志多山を利用した山城です。

この城を築いたのは坂上田村麻呂の末裔とも伝わっている三春田村氏の初代(伝田村氏23代当主)である戦国大名平姓田村義顕公で、永正子年(永正元年1504、もしくは同十三年1516)の築城と伝わっています。 

「三春城下天正絵図」によれば、創建当時の三春城は山頂上の段に櫓2棟の「本丸」、下の段に櫓1棟の「二ノ丸」、そして、南側の中腹に「三ノ丸」を置き、山麓には城主直参の旗本衆「不断衆」はじめ主だった一族郎党の屋敷が配置されていました。

寛永5年に三春城主となった松下石見守長綱公によって近世城郭への改修が大規模に行われ山頂上下の段を「本丸」として土塀や石垣をめぐらし、西中腹に「二ノ丸」、南東中腹に「三ノ丸」が配され建物も8棟を数えました。






後に、蒲生氏城代田丸直昌(石垣大規模改修)、上杉氏代官、加藤氏の時代を経て、江戸期の三春城主秋田氏も歴代城主が改修した城郭に補修を加えながら使用していましたが、天明5年(1785年)の三春大火により御城は全焼します。

その全焼からの復興の中で「二ノ丸」「三ノ丸」は廃し、本丸には建物3棟のみが建てられ「藩主御殿」や「藩庁」は西麓(現三春小学校)へ移設再建されます。






領内防御の戦略としては、「いざ合戦!」となった場合は城に立て籠もっての「籠城戦」ではなく、城主御一門や直参旗本不断衆などの本軍は出撃して領内東西南北の各所に配された「舘」、いわゆる「田村四十八舘」を守る田村衆と共に防御の要として一戦交えるという戦術が採用されていたと考えられます。


三春初代となる田村義顕(卜西)公、正妻は岩城大舘城主岩城常隆の娘です。

弟は三春田村氏を3代に亘り支えた「攻めの月斎」こと田村月斎顕頼(橋本庄七郎)で、周辺諸氏からは「畑に地縛り(雑草)、田に蛭藻(ひるも・藻)、軍に月斎なけりゃよい」と恐れられた軍師です。
記録によると100歳を超えても頭脳明晰の軍略家で田村勢の参謀として戦陣で采配を奮っていたと記されています。



三春2代田村隆顕公は、今話題の武将である陸奥国守護職・伊達左京大夫稙宗(政宗曾祖父)の娘を妻としています。

次弟の起雲斎憲顕(廣顕公・下枝の戦いで戦死。後に息子隆信が継承しこの田村系が鷹巣田村氏の祖)を船引城に、さらにその下の弟である梅雪斎顕基を小野城にそれぞれ封じて領内の守りを固めています。

三春3代田村清顕公は、正妻は相馬家十五代惣領家当主相馬顕胤娘・於北を迎えて三春田村氏の最盛期を迎えます。

後に愛娘「愛姫」を伊達政宗に嫁がせて、伊達氏の後ろ盾を得て、会津蘆名氏の仙道(現中通り地方)侵攻に対抗し、さらには安積・岩瀬方面に出撃して三春田村領の領地を拡大していきます。

しかし、清顕公には後継者となる男子がいないまま戦乱の中で急死します。






突然主を失った田村氏は一時伊達政宗の勢力下に置かれ、清顕の甥の宗顕(孫七郎・後に牛縊定顕)が家督相続をしますが、天正18年(1590)豊臣秀吉の奥羽仕置により改易となり伊達家(白石家)へ吸収合併されます。



三春城の別名「舞鶴城」の命名の由来として、田村義顕公の初入城の日に城の上空に1羽の丹頂鶴が現れ輪を描いて飛んだのでこの吉兆を喜び「舞鶴城」と名づけたという説。そして、もう一つ田村公が築城する際に、領内の安泰を祈願する為に人柱にする美しい娘を探し、領内の光大寺村に「お鶴」という娘がいて大変美しかったので「人柱」として山頂に埋め、その娘の供養もあって舞鶴城と名づけたという伝説が伝わっています。



蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!   拝



| ryuichi | 04:55 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |