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三春物語155番 「日ノ本将軍 生駒姓秋田家」
 
秋田孝季に史書編纂(和田家文書)を命じたとされる三春藩主秋田家は安日王の末裔であることをあることを家門の誇りとしている。
そうした祖先安日王崇敬の念は、下国安東氏(秋田氏)系図にも一貫して流れている。
また一族の結束も強く、松前藩家老職の下国氏は参勤交代などで江戸に行く際にはほぼ例外なく三春の秋田家を訪れ、三春藩主への挨拶を欠かさなかった。
また、こうした事実を周囲(徳川将軍家も含め)が容認するだけの歴史的背景が下国安東氏にはあったということでもあろう。
 たとえば、下国安東氏最後の当主であり、秋田氏初代秋田実季、三春初代藩主秋田俊季の父は、日ノ本将軍を自認し、生駒姓を名乗っていました。
また、万治二年(一六五九)伊勢朝熊に幽閉先で八十四才で没するまで、自家の系図編集に情熱を傾けている。
実季の目的は、藤原・橘・紀・源・平のどれにも属さない阿倍安東の系を記録することであり、北奥の神々と結び、被征服氏族安日王と結び付け、常に異端を歩んだ祖先を記録することであったという。
実季は、息子の三春藩主俊季が徳川家に提出した、安日王を祖先としていない系図を、系図のすりかえであり「末代之瑕瑾」と批判している。
『羽賀寺文書』
 こうした「朝敵安日王の末裔であることを誇る」という秋田家の認識は近代まで続いている。
明治になって旧大名諸侯の中で最後に華族(子爵)に列せられた秋田家は、宮内省から朝敵長髄彦の兄安日王の子孫では困るので系図の書換えを命じられた。
しかし、時の秋田家は「当家は神武天皇御東征以前の旧家といふことを以て、家門の誇りといたしております。天孫降臨以前の系図を正しく伝へておりますものは、憚りながら出雲国造家と当家のみしか無いのでございます」と改訂を拒否したことを喜田貞吉が紹介している。
これに対し秋田家は「拒否したと云ふ事実はない」と抗議し、喜田も取り消すという騒動が起こっている。もっとも宮内省の意向を拒否はしなかったと言うものの「長髄彦の子孫」であることを否定はしていない。
 このように安日王の子孫であることを誇りとする一族が近世(現代)まで存続してことは歴史の表舞台には出てきませんが、三春に住むものとしては意義深い事柄だと思います。


| ryuichi | 17:19 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春藩主 安東秋田氏 |
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