2022-07-25 Mon
代々、小野仁井町(現小野新町)赤沼で、お寺の梵鐘などを手掛ける鋳物師の末裔となる遠藤様にご来店いただきました。
ご自身でご先祖様が生業とされてきた鋳物師の仕事お寺の梵鐘を県内各地に尋ねて丁寧にお調べになられ、まとめられた「赤沼村の鋳物師」、そして小野新町赤沼にある、光明山無量寺阿弥陀堂に納められている「木造阿弥陀如来及び両脇侍像」福島県指定重要文化財(彫刻)の資料をご持参いただきました。
光明山無量寺阿弥陀堂「木造阿弥陀如来及び両脇侍像」は、赤沼の区長さんはじめ地域の皆様の熱意により、(公財)三菱財団からの浄財により2年の歳月をもって修復完了し、今年1月より一般公開(要予約)されています。
中尊 (本尊) が、阿弥陀如来像、中尊の左脇侍(向かって右) が観音菩薩、中尊の右脇侍(向かって左) が勢至菩薩という三尊像の形式で、小野町内に唯一残されてい平安末期のの仏教資料としても大変貴重な阿弥陀様と阿弥陀堂です。
この阿弥陀様が鎮座する平安時代末期の建立の阿弥陀堂は一度も火災に遭ったことがなく、江戸中期の元禄期に改装されていますが、福島県唯一の国宝建造物の「白水阿弥陀堂」のように、拝殿部分の柱や欄間には極彩色の装飾が行われています。
時代の流れと共に色は醒めていますが、完成当時の阿弥陀堂は鮮やかな色彩で彩られ浄土そのものであったろうと想像できます。
以下資料より抜粋
光明山無量寺について
無量寺 阿弥陀堂の南西側の奥で、現在は杉林となっている場所に、 平安時代 (794~1192) 末、 天台宗の寺として無量寺が開山されたと伝わっている。
長い年月の中で荒廃が続き、 天正11年 (1583) 良拾和尚が再興した時に、 浄土宗に改宗して現在に至る。
現在の無量寺 阿弥陀堂は、元禄4年(1691) に改築、大きく変わらない姿で現在に残っている。
阿弥陀三尊は定朝様で、 平安時代の開山時からのものである。
堂内は阿弥陀三尊を中心に、 改築時に近隣信者から寄進された、 飛天図、 雲龍図、鳳凰図、 絵馬等が四方の内部壁面に見られる。
江戸か京都の絵師を招いて描かせたものと思う。
飛天図は琵琶、太鼓、鼓、 笙、 笛などの楽器を持ち、 音楽を奏でる様子が窺える。
雲龍図は本堂が火災に遭わない為にゲンを担いだ意味なのか?子が鮮明な色彩で描かれ、 本堂内を極楽浄土の世界に創りあげていたものと思える。
絵図や本堂中央の柱など色褪せが多く見られるが、 往時は壁面や天蓋に浄土界の様
浄土宗に改宗してからの無量寺
小野新町字舘廻の専光寺が開山した永禄年間(1558~69) から約十数年後、天正11年(1583)無量寺は、専光寺を開山した良補和尚 (浄土宗梅福山専称寺 : いわき市平山崎)の弟僧である良拾和尚が再興したことから、 専称寺の末寺となった。
中世末から近世初期のこの時期は、浄土宗寺院の開創成立が多い時期でもあり、当時の小野地方への浄土宗名越派拡充の様子を窺わせる。
当時の専称寺は、浄土宗名越派の奥州総本山で、修行僧も多く抱えていた。
専称寺からの令により、江戸末期まで僧侶が無量寺に赴き、住職を務めていたことが、残された位牌及び墓石から判断できる。
嘉永2年12月 (1845) 無量寺に賊が入り、三十世良傳和尚が遭難し落命する事件が発生。
以後は住職不在の無人寺となり、 専光寺住職が無量寺兼務住職(現三十五世)となって今に至る。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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